廓然無聖

 廓然無聖(かくねんむしょう)は禅宗の祖である達磨大師の言葉です。梁の武帝が自国を訪れたインドの高僧である達磨大師を招いて会談したときの話です。武帝が自慢することには自分は多くの寺を建てお経を写させて僧を育ててきたと言い、この功徳にはどれだけのものになるかと尋ねます。達磨大師は功徳なんて無いと答えます。なぜ無功徳なのかと食い下がる武帝に達磨大師はそんなものは煩悩を増すだけだ等々と功徳なしと畳み掛けます。自分の積み重ねてきた善行に功徳なしとされた武帝は、では仏教の最も大切な真理は何かと尋ねたところ達磨大師は廓然無聖と答えました。この言葉の大意は心が広々としており聖俗の別が無いということです。達磨大師を聖なる高僧として招いた武帝はではあなたは何者なのかと問いただすと達磨大師は知らんと答えたと言われます。

 廓然無聖は我執から解放されると見える世界です。武帝のはじめの質問に対する無功徳という答えも、どんな善行も見返りを欲する我執にとらわれていては功徳もないという意味に繋がります。寺を建てお経を写し僧を養う布施行とは他のために財や労を提供することで自分へのこだわりを減じられる良い結果が功徳であり、我欲を満たすための物理的な見返りを期待していては我執に更にとらわれるのみです。最後の達磨大師が何者かとの問いも確固たる我にとらわれていなければ答えようがなくやはり廓然無聖につながった考え方です。

 我執を離れ世界をありのままに観れば聖も俗もなく、そして世界を平等に観て慈悲の心を起こすからこそ人は菩薩になりうるのです。こうした境地に到達するのは難しいですが、方向性がわかっていれば近づくことは出来ます。精進してまいりましょう。

 しかし、世界が平等でありあらゆる区別がないのならば、殺人も窃盗も邪淫もなんでもOKなどと勘違いする人も多いです。廓然無聖は禅の話ですが、浄土教思想でもどうせ救われるのだから何をしても良いなどと教えを曲解する人は昔からいました。仏教がそんな話なら元から悪いことを禁じる戒など無かったことでしょう。一部分の言葉だけ自分の我執に都合のいいようにつまんできても仏教の思想は理解出来ません。

 似たような話は仏教以外にもあり、例えばヴォルテールのものという嘘が多くの人に信じられている贋作名言に「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というものがあります。これも廓然無聖と同様に都合よく曲解されることがあります。いやむしろ意図的に捻じ曲げられて使われることが多い言葉です。なるほど意見が違うだけならば、言論の自由は守らなければいけないでしょう。ですがそれが明らかなヘイトスピーチならどうでしょうか?ヘイトスピーチは特定の民族や集団に無実の罪を着せ、デマを流布し暴力を誘発させるための意図的な攻撃です。意見でもなんでもありません。そんな嘘や言葉の暴力はむしろ守ってはいけないものです。実際に、この名言を使う人間にはヘイトクライムへの加担者が目立ちます。そんな人達は良識ある大衆に向かって自分らの差別と暴力の権利を守れと言っているのです。ちなみにヴォルテールもユダヤ人差別主義者だったそうです。

 どんな宗教や哲学や歴史の名言もその意図をねじ曲げて自分の欲のために利用しようとする我執にとらわれてはいけません。そんなみみっちい考えは廓然でなく、平等に物事を観ていないので無聖でもありません。

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