日本人と道

 日本人は道が好きだ。道路ではなく伝統的な心と技としての道だ。道の名前がつくだけでその技術は引き締まって見える。例えば剣道ではなく剣術と言うと、精神性が無いなにか薄っぺらい技術のように感じてしまう。剣道は精神性があるから剣道であって単なるスポーツではない。楠正位も「剣道は武士道を実行する為に修行するのだ。武士道を離れた技術だけなら虎狼の如きである。」と言っていた。相撲だってその精神性を強調する時は相撲道と呼称されることがあるし、柔道は柔術からの派生ではあるが道の名を冠した柔道の方が日本人には広まった。道の名は日本人の心を打つ何かがある。それゆえに日本には様々な道が作られ、ラーメン道とか野球道とかまであり、何かの技術を伝承するにあたり精神性を重視する場合に道の名がつけれる。茶道や香道も技術の習得だけでなく、お茶を点てたり香りを聞く作法にのせて先人の心や思想を継ぐことに重きが置かれている。どんなに良いお茶を点てても客をぞんざいに扱うような行為は茶道では無く、茶道が単にお茶を点てる伝統技術ではないのは明白だ。

 仏教もその教えを実践する場合は仏道と言われる事が多い。仏教は宗教であるから精神性が重視されるのは当然と言えば当然なのだが、その教義をどんなに深く理解していても、盗みや殺人に明け暮れるような生活を送っている者は仏道に励んでいるとは言えない。学術的な理解だけでは道では無い、行為を伴ってこそ道となる。これは他の道でも同じで、精神性がバッチリでも美味しいラーメンが作れないとラーメン道としては意味が無い。技術や修行や実践がその精神に一致して不可分の状態でないと道にはならない。

 仏教だって四無量心を取り除けば容易に虚無主義に堕する。技術のみの瞑想は仏道ではない。

コメント

このブログの人気の投稿

妙好人、浅原才市の詩

現代中国の仏教

懐中名号