ヴァッカリ

 雑阿含経にヴァッカリという僧の話があります。重い病の床に伏した僧のヴァッカリがお釈迦様に使いをやって会いに来てもらいます。やって来たお釈迦様がヴァッカリに何か心配事があるのか尋ねると、教義上の心配ではなく自分の体が弱りお釈迦様にお目通りが出来なくなったのが気になっていたのだと答えます。お釈迦様は自分の体なんかみても何にもならない、この世の全ては無常であり、仏法をみることとお釈迦様をみることは同じであると諭します。お釈迦様の肉体が仏なわけではないのです。仏法は悟りをひらいた仏の智慧を説いたものだから、法をみる者は仏をみることとなり、仏をみる者は法をみることになるのです。

 我々はヴァッカリのように肉体を持ったお釈迦様を自分のところへ呼び寄せることは出来ませんが、お釈迦様の死後2500年以上の時を超えても仏の教えを聞く機会に恵まれており、法をみる者は仏をみるのだから今ここにお釈迦様をみることができるのです。仏様はいつも私達とともにあるのです。そうして仏様をみる人は、不完全ではあっても仏様ならどうするかを考えて行動できるようになり、その智慧である法をみることも出来るのです。

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