いいニュースとわるいニュースの判断と中道

 世間に流れる報道やニュースは一般化すると事件や事故や天災や訃報などの凶事や、スポーツや競争ごとの勝敗など見る人によっていいことにもわるいことにもなるものや、科学技術の進歩など人の役に立つよいしらせなど様々な物があります。しかし良い悪いの判断は最終的にはニュースを受け取る個々人の価値観により絶対的なものではありません。

 仏教では中道的なものの見方を重んじますが、それが単に世間に溢れる意見の中間をとるものと勘違いすれば恐ろしい過ちを犯しかねません。中道はあくまでも道理に照らして判断されるもので、世論に左右されるものでは無いからです。

 世論はしばしば極端に傾く拠り所が無いものです。その平均値が中道になるのではありません。例えば民族差別が加熱している国で特定の民族を全て強制収容しようという意見と皆殺しにしようという意見が拮抗していた場合に中間をとって半数を殺す事は中道ではありません。最初から差別しないのが中道です。

 仏教者たるもの法灯明、自灯明の精神を忘れないようにしたいものです。

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