ジャータカにおける自己犠牲
今日は、このブログでも時々取り上げているお釈迦様の前世譚であるジャータカについて考えてみたいと思います。ジャータカは歴史学的にはもちろん実話ではなく創作のお話で、当時の民話を仏教に取り入れアレンジしたものと見られています。おそらく世界最古の転生モノの小説群です。これらが東西に伝わりいろんな童話のベースとなったであろうことは、文化や歴史を語る上ではたいへん面白いのですが、今回は思想・宗教的側面から解釈していきたいと思います。
ジャータカには様々なバリエーションのお話が多数ありますが、有名なものの多くは前世のお釈迦様が自分の命や身を犠牲にして他人を救う話です。しかし、これらの自分の命までも犠牲にする話は極端な苦行を否定したお釈迦様の教えに反しはしないでしょうか?
例えば、お釈迦様の前世であるウサギが僧侶への供養のために自ら焚き火に飛び込んだり、別の前世のときの王子が飢えた母虎の為に自分の身を餌として投げ出したりする話は、強い利他や慈悲の精神の表れとして大乗仏教でも称賛される事が多いです。ただ注意すべき点はジャータカ自身は大乗仏典ではなく、部派仏教(小乗仏教)の経典に属する話だということです。慈悲や利他行を大乗仏教ほどは重視していない部派仏教の視点ではジャータカをどう解釈すれば良いでしょうか?
まずジャータカは小乗の修行者では無く、その在家信者などの大衆に対して説くために作られた話です。部派仏教の考え方では出家者以外に成仏するチャンスはありません。一般人は現世で出家者を供養し功徳を積んで来世以降で頑張りましょうと説いていたわけですから、現世で必死に善行を積み次につなげるように促す意味もあったのです。お釈迦様だって前世ではこんな命がけの布施行に励んだのだから来世で成仏を目指すのならば自分たちへもっと支援をしろという宣伝にもなります。
次にそもそも自分の命を犠牲にするような修行は間違っているのでは無いかと疑問には、そんなことをしたから転生するまで悟れなかったのだと答えることも可能ですが、それよりもお釈迦様の没後におきたお釈迦様神格化の影響が強いと思われます。
お釈迦様が悟りを開いてまず教えを説いたかつての修行仲間の五人は短期間のうちにお釈迦様と同じ悟りを開きます。その後もお釈迦様の布教により次々と悟りを開く人は現れましたが、その死後は悟りへのハードルはどんどん高くなっていきます。なぜお釈迦様の没後、悟りは難しくなりお釈迦様の神格化が起きたのか考えてみましょう。お釈迦様と同等の人間が多数現れれば教団の秩序も保ちにくくなるのは明白です。そこで部派仏教はお釈迦様と同じ悟りは現世では決して開けないと定義付けてしまいます。当初は悟った者と同義だった阿羅漢を仏とは大きな格差がある不完全な者としてこれが人類の到達できる限界としました。お釈迦様を神格化することにより教団の秩序を保ち分裂を防いで後世に教えが伝わって行くことになります。この結果、修行者は学習や瞑想において探求を深めて行き、よく言えば仏教は発展しましたが、他方、高度に専門化され複雑化していく教義は仏教をほんの一部の人間のものだけとしてしまいました。そんなごくわずかの超エリートですらお釈迦様の足元にも及ばない設定であるがゆえに、お釈迦様の前世譚も通常は出来ないようなことのオンパレードとなっているのです。
部派仏教的にジャータカがこうした話になったのはその発展の経緯を考えると妥当なものかと思えます。ただ、極端なエリート主義に変質してしまった部派仏教に対抗して出来た大乗仏教も、利他と慈悲を強調し我を否定する立場なので、こうしたジャータカの自己犠牲の話は親和性が高かったのです。
確かに我欲を捨て利他に徹することは素晴らしいですが、こうした自己犠牲の話は自分の貪欲さを反省するときに思い出せば良いだけです。命は大切です。ジャータカは転生モノのラノベと同じです。主人公の真似を現実世界でするとフラグが立つ間も無く死にます。危険なので心意気だけ頂きましょう。
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