自分の個人的経験を一般論化するのは偏見です。

 人は自分の経験を一般論として語りがちです。例えば、男性にひどい目にあった女性や、女性にひどい目にあった男性が、一般論として異性の事を害悪視して社会やネット上で暴れる姿は時々見かけます。人類の総人口の約半数を類型化してしまうのはいくらなんでも行き過ぎでしょう。ですが、そういう極端で過激な事を言ったりしたりする人を糾弾すれば良いのかというとそれも違います。そういう人たちと関わりになる機会があれば、攻撃的な言動をせずに、私はそうは思わないと伝えてあげるのが無難です。きっと人類の半数を敵視してしまうくらいの嫌な経験をした結果なのでしょうから思いやりの心を忘れないようにしたいものです。

 有名人への批判も似たような物です。何かしら自分の気に入らない事をしたXXさんは、もはや人間としてのXXさんでは無く、憎しみのアイコンとしてしか見られない人が散見されます。だからXXさんの言動の中身ではなく、XXさんがすることは全て悪いとの前提で物を見てしまうのです。XXさん=許されざる悪という一般論化は恐ろしい偏見です。実際にSNSでいじめられて自殺に追い込まれる人もおりますので、自分が殺人を犯さないためにも、そういう思い込みは避けるべきです。相手が直接的に襲いかかってくるとかでない限りは、嫌な相手にわざわざ関わりを持ちに行く必要なんてありませんから距離をとって冷静になれば良いのです。そもそも論として誰か特定のXXさんがいつでもどこでも何をやっても悪である可能性なんてほとんどありません。外側でなく中身で判断するべきです。

コメント

このブログの人気の投稿

妙好人、浅原才市の詩

現代中国の仏教

懐中名号