神本仏迹説
本地垂迹説は大乗仏教の仏や菩薩が日本の神の本体であるとする考えで平安時代に頃に生まれた神仏習合の賜物です。これに対して表題の神本仏迹説は、日本の神の方が仏の本体であるとする日本の神々の優位性を説いたもので、同じく平安時代頃に出来て鎌倉時代に伊勢神道により主張されていました。
どちらが本体でも良いのですが、日本では常に異論はあったものの明治までの約1000年近く神と仏は同体だったことになり、昔の文章を読む場合はこの辺の事情を考慮する必要があります。ただ祭祀は神式と仏式が別々であり続けており、神仏習合と言いつつ決して合成はされなかったのです。
宗教として神道と仏教が融合しきれなかったために、明治の神仏判然令に伴う廃仏毀釈につながるのですが、神道のトップである天皇家も明治以前は仏教にも帰依していた事を考えると、この長期間で二つの宗教が融合しなかったのは歴史的に見て単純に驚異的出来事です。仏教の視点からは神々と言えでも天部に所属する迷える衆生に過ぎないことになり、神道からはそれに対する反感もあった訳で、その対立は物部家VS蘇我家の昔から続いたことになります。
明治以前の伏見稲荷神社は神宮寺であった愛染寺の僧と神職との対立の記録なども残っている一方で東寺や本願寺との関係もあったのを思うと、良い方向に競い合って日本の文化が形作られて来たのかも知れません。今の神仏分離状態が常識である現代人から見ると、紆余曲折はあったものの、こうした競争で多様な思想や文化が残ったのは結果として良かったと思います。
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