末法灯明記
最澄の作とも偽書とも言われる「末法灯明記」は特に浄土真宗において無戒の僧の存在を許容する根拠として用いられることが多い文章です。お釈迦様の死後、その教えはどんどん衰えていくのでそれが極まった末法の時代においては形ばかりの僧でも尊敬するべきだという内容の文も書かれており、概ねその視点で論じられることが多い「末法灯明記」ですがその主題は別のところにあります。
「末法灯明記」は冒頭で仏教の教えで人々を導く法王と、天下をうまく治める仁王とが世間の道理と仏法の真理とを協調させればよい政治が行われるとしており、それに引き換え最澄が朝廷の支配下にあることを嘆いています。続く話の大部分は時代とともに衰退する仏教と、その中にあっては昔と比べて質の劣った僧侶でも貴重であることが強調され続けます。そして、最後の部分では俗世界の政治権力により仏教の組織が支配されるのは仏教を滅ぼし、ひいては国を滅ぼす原因になると警告し、そならないように僧侶を大事にあつかうように説かれています。
「末法灯明記」が最澄の真作でも彼に仮託した贋作でも、未だ国家による統制が強かった当時の仏教界において、その支配から離れ独立的立場を樹立したいとする意志の表明のように思えます。よく批判されるように、僧侶の堕落を認めさせるための権威付けとして捏造された贋作である可能性も否めませんが文章全体の流れとしては、朝廷による仏教の支配を嫌う流れになっているのは事実です。
現代にも残る真面目に戒律を守る僧侶からしたら確かにとんでもない事が書かれており仏教の論争のネタとしては頻出の書です。ただ時代の移ろいとともに最善なものは変わるとする考え方は、かくあるべきか否かは別にしても本当のことだと思います。決まり事を守ろうとする人と変わる世界の圧力とのせめぎあいの中から、新たな工夫が生まれることもありますので、今後もこうした緊張状態が続くのはある意味では良いことなのかも知れません。
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