自利利他の心

 自利利他は大乗仏教の修行である菩薩行の根幹で、古くは菩薩行を説いた十地経というお経の解説書である世親(天親)菩薩の十地経論の冒頭の偈文でも自利利他の文言は見られます。自利とは仏教の修行をすることで自分の利益になることで、利他は他人に功徳利益を施す事ですが、自利がそのまま利他となり利他がそのまま自利となる境地が菩薩の目指すべきところです。今回はこの解釈を採用しますが、浄土真宗では自利を自力の修行、利他を阿弥陀如来の本願力と解釈しています(※)。

 宗教的に突き詰めると難しい話ではありますが、在家の人間の生活で例えると、会社や顧客の為にと頑張りすぎて倒れれば、自分の為にも会社の為にも顧客の為にもなりません。自分の能力を高め健康を維持するのは、他人の役にも立つことなのです。職場では、特に管理職にある者は、自分だけでなく部下や周囲の健康に気を配るべきですし、病気や不慮の事故に倒れる人がいれば出来るだけ支援してあげるのが倒れた人に対してだけでなく自分の為にも組織の為にも有益です。福利厚生とは単に労働者を守るだけのものではありません。何かあっても守ってもらえると評判の会社と、何かあれば見捨てられると言われる会社ではどちらに有能な人材が集まるかは明白です。たとえ再起不能な状態であってもできるだけの支援を企業は国とともに行うべきなのです。倫理にかなうことは実利にも結びつくのです。ところが、倫理を無視して悪逆非道な振る舞いで経営陣だけが暴利を貪ろうとするような企業もあとを絶ちません。

 労働者を使い捨ての消耗品のように扱ういわゆるブラック企業が社会悪なのは、被害者の健康や命を損なわれるというのが最大の理由ですが、継続的に働き成長できていれば大いに社会に貢献したであろう人を失うことは社会やそこに暮らす全ての人に対する損害でもあります。倒れた人をろくに助けないのも言語道断です。ブラック企業に使い潰される人の多くは責任感が強く他人への思いやりに富んだ良い人です。そうした人の善意を食い物にして自己の収入に変えることしか考えていない我欲に満ちた経営者がいなくなるように活動するのも自分と他人を利する事になります。人間は自利利他ではなく私利私欲に走りがちであり、他人を助けるよりも奪い取りやすいですが、他人を助けることが結果として自分も助けることになるのを忘れてはなりませんし、自分を助ける事が他人を救うことにもつながるので自分を粗末にしてはなりません。人は我欲により真実が見えにくくなっていますが、私達は自他ともに絶対的な我は無く関係性の中の存在であり自利が利他になるのは決して矛盾しないのです。

 菩薩というと礼拝の対象と思っている人も多いですが、菩薩とは仏様(如来)になるために修行して自利利他が円満となるように努力している人間の事です。確かに礼拝の対象して有名な菩薩は観音菩薩や地蔵菩薩や弥勒菩薩などそうそうたるメンバーですが、私達のような大乗仏教の信者は出家も在家も菩薩なのです。菩薩の名に恥じないような生活をしたいものです。

(※) 高校の授業でも習ったかと思いますが、漢文の文法で自利・利他を解釈すると、自利は自らが利する、利他は他を利する、と解釈されます。この場合、自利は目的語が利他は主語が省略されていると読めるので、浄土真宗の開祖親鸞聖人は利他の主語に仏(阿弥陀如来)をあて、自利については阿弥陀如来が修行中の法蔵菩薩の自力の行であると解釈した結果、浄土真宗では自利を自力の行、利他を阿弥陀如来の本願力たる他力と解釈するようになりました。ただし、主語や目的語の省略に関しては通常は文中で何を略したかわかる様になっており、菩薩行を論じる文中での自利ならば菩薩が自らを救うことであり、利他は菩薩が他の衆生を救うこととの解釈が一般的です。

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