倶胝竪指

 本日は禅の公案集「無門関」の中でも最大級に意味がわからない「倶胝竪指」の話をします。はじめにネタバレすると今回の私の話に特にオチや結論はありません。単なる個人の感想ですのでご容赦ください。

 倶胝という和尚さんは仏法について詰問を受けた時はただ一指を挙げて返答としていました。ある時、寺の童子が外からの客に、ここの和尚さんはどんな風に仏法の要点を説いているのかと尋ねられたので、和尚さんと同じ様に指を立てて返答としたところ、倶胝はこの童子の指を刃物で切り取ってしまいました。痛みに泣き叫びながら逃げる童子を倶胝和尚は呼び止め、童子が振り返ったところで指を一本立ててみせました。これをみた童子は忽然と悟りを開きました。後に、倶胝和尚が死ぬ間際に集まった人に対して「自分は天龍和尚の元で一指頭の禅を学んだが、一生かかっても使い尽くす事が出来なかった」と言って亡くなりました。
 この話を受けて無門は「倶胝和尚も寺の童子も指の頭で悟ったのではない、その事がわかれば天龍和尚も倶胝も童子も自身と共に串刺しにされるされるだろう。」と言って、次の詩をよみます。「倶胝は師の天龍をバカにして刃物で童子を脅す、巨霊神はたやすく山を引き裂く」

 これが倶胝竪指のお話です。全く意味が分かりませんが、禅の公案ですので先人の答えを模範解答とするよりも自分で考えることに意義があるのでしょう。少し考えてみます。

 前半を見ると、悟ってもいないのに悟った風な態度をとるのは良くないと言う意味にも思えますが、指を切られた童子は倶胝が指を立てるのを見て悟りを開きます。これは仏教におけるいわゆる悟りであり、悟ったフリをするのは良くないという事だけを理解したのとは違います。そして、倶胝和尚は死ぬ前に一指頭禅を使い尽くす事が出来なかったと自分の一生を回顧します。童子の指を切らないと悟らせられなかったことに問題を感じていたのかも知れません。全く他の意味で使い尽くせなかったと言っているの可能性もありますが、後半の無門の解説でもこの童子の話を軸に進んでおり、使い尽くせ無かったというのは童子に犠牲を強いたことをさすとします。そして無門は、一指頭禅で悟った人たちは指の頭で悟ったのではないと断言しています。童子に至っては指を切られており、当然ですが悟りの要素として指が必要不可欠という訳では有りません。指をみて悟ったのではないと理解することが、天龍和尚から倶胝と童子とともに自分も串刺しなって一指頭禅ひきつぐ重要な要素であるのだと思われます。最後の詩も童子に刃物を用いた事を否定的に書いており、昔話に出てくる巨大な神が山を引き裂いたことと並べています。神が山を裂くのは神の指をもってしたのですから、最後も指の話でしめられています。

 文字からこの話を読み解こうとしてもやはりよく分かりません。ここは倶胝和尚に指を切られるかもしれませんが、何か難問を、例えば誰かに倶胝竪指の意味を聞かれたと仮定して、その相手に指を立ててみましょう。何もわかっていなくても何か深遠なことを伝えようとしている雰囲気だけは出ます。一本の立てた指は通常は何かを指し示すために使われますが、この状況では何もさすわけではなく指が一本あるだけです。次にこの状態のまま指を師匠から切られたと想像してみましょう。私の場合は不思議と精神状態に変化はありませんでした。もちろん本当に切られたら七転八倒するかと思われ、想像力の欠如かも知れません。しかし、この時の感覚を無理に言葉にすると指が切られても指の意義はそのまま残っているような感じです。

 いや結局、分からなかったので面目次第もございませんが、時々なにか難しい疑問が湧いた時に、指を立ててみようかと思いました。

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