アイドルの推しと初期仏教

 初期仏教の教団運営はアイドルとそのファンの構造に似ている。大乗仏教はこの例えでいくならばワナビの学校のようなものだ。それぞれにいい味があると思う。

 ここではアイドルとそのファンの構造を、芸能の才をもった輝かしい人物がより高みを目指して行くのをファンが支えるものとする。アイドルはその芸や熱く語る言葉によりファンに希望や勇気を与える。このお互いの支え合いによりアイドルとファンの集団内の一体感が増すと同時に、コンサート会場や出版物やネット環境などなど周辺の様々な分野に経済効果をもたらす。

 初期仏教でもその後の部派仏教でも現在の上座部仏教でも、出家した僧侶は永遠とも思えるような長い転生の繰り返しの果てに気が遠くなるような功徳を積んで今その最終目標である解脱にリーチがかかった状態のヒーローのようなものであり、これを応援したくなるのは人情として自然だ。僧侶は在家の悩みを説法で慰めしっかり功徳を積めるように導いていくし、在家もどうにかこの僧侶を成道させてあげたいと九仞の功を一簣に虧かぬよう支援していく、こうした双方による布施の循環はお互いの功徳を増すという宗教的な意義以外にも、地域コミュニティの安定や寺院の建立や説法に集まる人々の流れなどで経済効果も生み出すこととなる。

 経済効果を伴わない集団はなかなか存続しない。仏教がいろんな地方の文化に適応しながら進化してきたもの、一定の経済効果をもたらしてきたからであり、開祖のお釈迦様がその教団を都市の近郊においたのは慧眼であったといえる。一人でヒマラヤの奥にこもっていても経済効果は生まれないし後世にその教えが伝わることもなかっただろう。

 大乗仏教も経済効果を持つが構造としてはアイドルとそのファンのものではない。大乗仏教の信者は基本的にはみなトップ(仏・如来)を目指している。今回の図式に当てはめるとアイドル養成学校の生徒のようなものだ。しかもズブの素人が今この世には存在しない人類を超越した究極のトップアイドルを目指している。この場合、お坊さんは学校の先生の役割を果たしているといえるが、お坊さん自体はみんなが目指す如来ではないので、この先生もみんなを率いながら究極のトップアイドルへの道を進んでいることになる。

 こう考えると大乗仏教がアイドルとそのファンの構造を持つ上座部仏教の一部信者から嫌われる理由も少しは分かる。一般人がアイドルのその更に上を狙うなんて不遜かつ不敬であるからだ。ジャニオタの前に行ったさえない中年のおっさんがいきなり「俺は○○くんを超えるね!」と宣言するようなものである。まさに混ぜるな危険。

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