偏見と正見

 人は偏見から逃れられません。もし偏見から逃れられたとしても言語化した時点で言語に依存した偏見は生じ、その真意は他者へ完全には伝わりません。その意味で人間は良心的な相互誤解の上に平和と秩序を保っているのです。

 お釈迦様がはじめに説法された悟りに至る考え方や修行である四諦八正道は正しいものの見方(正見)を得ることが一つの到達点です。この場合の正見とは、別に全知全能になることではなく、偏見に惑わされないことです。通常、人は偏見にまどわされ続けていますので、まずその自覚を持つことが正見に近づく上で大事です。特に予想外の事が起きた時に、偏見から冷静な分析によらず感情的な理由を作り上げてしまう事があり警戒が必要です。

 例えば勝てると思っていた勝負に負けたときに、何かしら悪者をデッチあげるようなものです。第一次世界大戦でドイツが敗れた時に、ドイツ人の一部は戦争に負けたのは軍や国のせいでは無くドイツ国内から軍の行動を妨害した社会主義者やユダヤ人のせいだとする、俗に「背後の一突き」と呼ばれる陰謀論を唱えました。このデマから生じた怨嗟が後のナチス第三帝国によるユダヤ人虐殺の遠因となったのです。現代社会でも、どう考えてもありえない話や証明しようがない話を真実と思い込み陰謀論に突き動かされる人はいます。ラジオから流れたデマで虐殺がおきたルワンダと同じような事は、アメリカや日本で決して起きないと保証は出来ません。

 偏見とは時に大量虐殺までも生み出す大変恐ろしいものです。偏見から完全に逃れることは出来なくても、常に偏見におちいらないように注意するのは生きていく上で大切です。特に怒りの心がある時は騙されやすくなります。気をつけたいものです。

 一切衆生に正見が得られますように。合掌。

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