善悪

 過去に存在した仏の全員が説いたと言われる七仏通戒偈にもあるように善いことをして悪いことをしないのが仏教の重要な教えの一つです。日本の仏教で説かれる善として有名なものに十善がありますが、これは積極的になにか善いことをするというものではなく悪をはたらかないことをもって善としています。この時の十善の反対の概念である代表的な悪を十悪とよび、殺生、盗み、邪な性行為、嘘、悪口、内容のない飾り立てた言葉、人を仲違いさせる言葉、貪り、怒り、偏ったものの見方のことを指します。対する十善は十悪をしないことです。

 この十善は密教系の宗派でより重視される傾向にありますが、その理由は次のようなものだと思われます。まず、密教の修行では手に印を組み、口で真言を唱え、心で仏を念じることを、それぞれ身密、口密、心密と呼び合わせて三密といいます。人間の行動はその身体によるもの、発言によるもの、心によるものの身口意に分類され、三密で人の全ての行動を修行に結びつけているのです。十善はこの身口意に対応しており、身による善が殺さいない、盗まない、邪な性行為をしないの三つで、口による善が嘘や悪口や人を仲違いさせる言葉や内容の無い飾り立てた言葉を使わないの四つで、意による善は貪らず、怒らず、偏ったものの見方をしないの三つです。つまり、十善は三密の修行に対応した善行であると言えるのです。三密はこのご時世では感染防御のために密集、密接、密閉を避けると言う意味で使われることが圧倒的多数ですが、おそらくこのフレーズを作った人も意識していたのでは無いかと思います。

 さて、話がそれましたが、この十善を全てできるかと言うと実はかなり難しいです。身と口に関する善は意識すれば実行可能です。しかし最後の意に関する善は、代表的な煩悩である貪り、怒り、無知の三毒を克服せよと言うものであり、これができれば仏道修行は事実上完了するという類のものです。それでも怒りや貪りはまだコントロールのしようもありますが、無知の克服に関しては、偏らない正しいものの見方をせねばならず至難です。

 浄土真宗の開祖である親鸞聖人の言行を記録した歎異抄には、如来でなく単なる凡夫に過ぎない自分には何が善で何が悪であるのか全く分からないという趣旨のことを親鸞聖人が言ったと書かれています。ややもすると頼りなく聞こえる言葉ですが、正しくものを見ようと心がけていても偏見から逃れられる人間なんていません。視点の偏りが変われば善悪も変わります。仏ならざる身では究極的には何が善で何が悪か分からないというのは実は正しいのです。

 だから、善悪を語る時に、自分が間違っている可能性を心に留めておくのは無用の争いを防ぐ意味でも重要な事なのです。善悪の基準としては受動的とも言える十善は正義の暴走を防ぐのにも有用と言えます。そう長くもない人生、なるべく悪を避け善い事をして過ごしたいものです。

 それではまた、合掌。

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