八不

 今回は大乗仏教の祖とも言うべき龍樹菩薩の代表作「中論」の冒頭の偈文です。この文が中論の要約になり有名な八不が説かれています。

不生亦不滅
不常亦不断
不一亦不異
不来亦不出
能説是因縁
善滅諸戯論
我稽首礼仏
諸説中第一

 この一見わけが分からない文章は、この世には確固たる自分(自性)というものは存在しないという無自性を基本として原因と結果の関係で成り立つ縁起を考えないと理解不能です。

 まず「不生亦不滅」という、この世のものは生まれることはなく滅することもないという文は、この世は関係性の中に成り立っており、自分や他人なども含めて確固たる不変の存在(自性)はないのだから、存在しない自性から何かが生まれることはない。そして、生まれていないものが滅することもないのです。

 続く「不常亦不断」という、何も恒常的には存在せずまた何も終末があることは無いという矛盾しているように見える文章も、物事は縁起という関係性の中にのみ成り立っていて自性は無いと見ればわかる話です。つまり、物事に自性があると考えるから存在が永遠にあるとか、終わってしまうとか考える訳です。自性という概念がなければこうした考えは無いということになります。縁起もそれ自体が存在しているというわけでなく関係性の話です。原因が無くなれば結果も無くなるから、煩悩がなければ最終的に苦が無くなる訳ですが、煩悩自体に実体がなくても関係性は残るのです。

 三つめの「不一亦不異」という何もそれ自身と同じものもなく同時に違うこともないという話も、縁起の考えから導かれます。原因と結果は同じものでは無いが、異なりもしないということです。薪と炎は違うものだけど分離できないという例えでも知られます。

 最後の「不来亦不出」という何ものもやって来ることはなくまた去ることもないという文章は、自性の否定から理解できます。もし確固たる存在である自性があれば、物事が生滅することが無いのだから生まれたり消えた様に見えることは、全てどこからかやってきたものか去っていったものということになります。消滅の様に見える物事が去るということに注目すると、この世にはすでに何かが去ってしまった後か、まだ去っていない場所しかないのに、ものの消滅として何かが去っている途中の場所は存在しない。不来も同じ理解です。これはこの世に確固たる自性なるものは存在しないと言っている事になります。

 この偈文の後半は、この因縁の法を解いて戯論をよく滅した仏を最も優れた説法者として敬礼するという意味です。つまり、この八不は因縁(縁起)の法の説明であり、偏見から生まれる無益な説を滅ぼすのに役立つと宣言しています。

 大乗仏教は龍樹菩薩によって打ち立てられたと言っても良く、当時の流れに反して新基軸を打ち出すにあたり論戦を繰り広げる必要があったのでしょう。八不は基本的に当時の有力な説を破り、お釈迦様の説いた中道と縁起説への回帰を促すために使われています。

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