大乗仏教の利他精神は余計なおせっかいなのか?

 上座部仏教などの部派仏教は大乗仏教の対義語として(差別的用語だとする意見もありますが)小乗仏教とも呼ばれます。いったい何が大で何が小なのかと言うと、小乗仏教は基本的に僧侶が自分一人の悟りを目指す教えであり、大乗仏教は一切の生物を救うのを目指していますから、救いの対象の大小だと言えます。大乗仏教は、高度に学術化専門化されてしまった当時の部派仏教への疑問から成立していますので、そういう学を修めた一部の人間がだけが救われるのを善しとしないのです。

 大乗仏教は従来の仏教と比べて救いの対象が圧倒的に広がったから大乗なのですが、それに対する批判として例えば、お釈迦様はその在世中に広く布教したのは真理を理解できる人を救うのが主たる目的で一切衆生の救済は主目的では無かったとするものがあります。さて、大乗仏教の利他は余計なお世話なのでしょうか?

 現代社会においても、高等教育の有無はその人の社会的立場や収入に多大な影響を及ぼします。そもそも生まれによる差別が無いはずの仏教においても、部派仏教で高度に学術化された教義体系の理解は、教育の有無、換言すれば貧富の差によって有利になったり不利になったりしたのは間違いありません。出家僧を支える布施が無限で無い以上は、遺憾ながらその資質により僧として生き残れる者とそうで無い者がいたのも自明です。そうした時代背景で苦しむ弱者を救済したいとの慈悲の心が大乗仏教成立の原動力になり在家主義の勃興を生んだのです。余計なお世話だと言われればそうかも知れませんが、時代のニーズはあったのだろうと確信します。また、こうした変化から大乗仏教は仏教ではないとの言説もよく聞かれますが、基本思想は言語的な教義の複雑化を嫌った縁起説に基づく空の思想であるので、むしろ仏教の原点を再評価したとも言えます。

 仏教では全ては関係性の上に成り立っていると考え確固たる我の存在を認めません。それゆえ大乗仏教において自利と利他は同一線上にあると言えます。その意味では利他行為が余計なお世話とは言い難い感もありますが、これは大乗仏教の価値観内の話であり注意が必要です。例えば、ユダヤ教やキリスト教やイスラムなどのアブラハムの宗教では我と他には明確な違いがあり神は絶対の存在ですし、唯物論にしてもミームの存在を認めても我は物理的に存在します。こうした我を確固たるものとする価値観の人に対して大乗仏教の利他の精神は余計なお世話であったり自立心に立脚しない気持ち悪い物に見られるかも知れません。また、彼らはそれぞれの価値観の中で苦しんでおらず既に救われているので救済の対象外であり、過剰な介入は避けるべきです。常に違う文化への思いやりを忘れてはいけません。

 とは言え、例えば行基や空海が土木や治水工事で人々を救ったのは、布教ばかりが目的ではないでしょう。災害に苦しみ飢えて生きるのがやっとの人たちをどうにか救いたいという大乗仏教の原点があったはずです。こうした社会的な貢献による利他は別に困る人もいないと思われどんどんやって良いです。

 一方、かつて何度かこのブログでも書きましたが、大手のビハーラの講演で自慢気に自分の宗派に患者さまを改宗させた話をする医師がいましたが、まさにこういうのが余計なお世話だと言えます。宗教に関わる者はこの事を肝に銘じる必要があります。

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