一休さんと浄土教

 一休さんとして知られる一休宗純は皇族の血を引く臨済宗の高僧として、またその破天荒な生き様が有名ですが、一時、浄土宗に改宗したことがあります。一休さんの漢詩集である狂雲集には法然聖人を称える歌も記されており、また、浄土真宗の蓮如上人と交流があったとの言い伝えもあり、禅僧でありながら浄土教とも縁が深い方です。

 日本の仏教の中で最も個人による修行を重視するのは禅宗系の諸宗派であり、対して浄土教系の諸宗派は阿弥陀如来の他力を頼みとするのが基本ですので、悟りに至る行動のベクトルは真逆です。

 一休さんが生きた時代では、信者層も禅宗は比較的社会的地位が高い人が多く、浄土教は庶民にも幅広い信徒がいたと言われます。

 一休さんは飲酒、肉食、女犯などを平気で行う破戒僧であり、寺や山野にはあまりこもらず概ね民衆の中で活動をしていたので、その生き様を考えると、一見、禅宗よりも浄土教との方が親和性が高いようにも思えます。ただ、浄土教では自分が凡夫であることを恥じ阿弥陀如来の救いに感謝するのが通常ですが、一休さんは自身の凡夫性を一切恥じておらず、むしろ彼流の悟りへと昇華しており、そのかぶきぶりは、やはり臨済宗の禅僧にふさわしいのかと思います。

 一休さんの改宗には謎も多いのですが、臨済宗の教えを放棄したわけではなく人間関係によるものだったとも言われています。その場合、果たしてここまで系統が異なる宗派間の改宗は教学的にありうるのかと少し考えてみました。

 まず、浄土教の基本は阿弥陀如来の本願力による他力なのは前述の通りです。浄土教的な視点では自力は否定されますから、禅は自力の極みとも言えるダメな行為のように見えます。ですが、禅僧が座禅をする時に、自力で悟るぞ悟るぞ悟るぞ悟ってやるぞぉおおお等と血眼になっているかと言うとそんな事はなく、そういう気負いなしに自分を我を捨てている訳です。では浄土教で一般的な念仏はどうでしょう?これは悟りのために自力の心で唱える呪文のようなものではなく、既に自分を救ってくださっている阿弥陀如来に感謝、報恩するための念仏であるとされます。そういう気持ちで一心に一向に念仏し続ける時に意識は集中しある種の禅定とも言える精神状態になることもあり、実は、禅と念仏は真逆のようで類似点もあるのかと考えられます。教学上、お互いの教義を尊重した改宗もありです。

 実際に一休さんがそう考えていたかは分かりませんが、一休宗純のなんでも併呑するような器の大きさに長い時を経た今なお感動する人が多いのでしょう。

 それではまた、合掌。

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