直心是道場 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 4月 04, 2020 久々に禅語です。禅語というか、聖徳太子の回にもお話した維摩経に出てくる言葉で、真っ直ぐな心が道場であるという意味です。俗世から離れた特別な場所で瞑想しなくても、日々の生活で人の役に立ち、強い心をもって、かたよらない物の見かたをしていくことによって、俗世で生きているその心に悟りを目指す道場と呼べる物があるのです。 色々と大変ですが本日も生きて参りましょう。 それではまた、合掌。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
浄土真宗本願寺派の不祥事 9月 18, 2022 このところ浄土真宗本願寺派の不祥事が目立つ。全国の幼稚園の団体での本願寺派住職よる6億円以上の巨額横領事件、本願寺派と懇意にしている芸能人やアナウンサーなどによるロシアの侵略擁護発言、直近では本願寺派の若手僧侶の動画が炎上した。 動画に関しては真宗の教義に照らしてもその発言内容はいかがなものかと思い質問したのだが、本人がそういう意図ではなかったと言っており、本願寺派の僧侶や門信徒もあまり問題視していない。現在は動画内のふざけた行為(本人はその意図はないと釈明)が主に他宗派から糾弾されている形だ。この炎上の一因として考えられるのは、本人は後で反省したような事を言っているが、当初の批判にはかなり挑戦的攻撃的に反論していたのも火に油を注ぐ形となったように見受けられる。 また、不祥事ではないが、教義面においても2018年に発表された自力の行を認めるかのような門首のお言葉にも動揺が広がった。この教義解釈の変更は他宗派への歩み寄りのようにも見えるが、軸がぶれている感は否めない。若手僧侶に影響がなかったと言えば嘘になるだろう。 では本願寺派はどうしようもないダメ宗派かというと一概にそうとも言えない。少なくとも浄土真宗も浄土教の基本的なフォーマットは保っており、他宗派の一部の人から言われる浄土真宗は仏教にあらずとの批判は正しくないと考える。むしろ浄土を絶対視し、それ以外のこの世を徹底的に穢らわしいと見る発想は、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、を他宗派よりも強く念じているようにすらみえる。戒律が存在しないのも叩かれる材料ではあるが、御恩報謝の思いで仏を念じていけば、自ら意図せずに戒を守るように成長する。常に強く仏を念じながら人を殺したり嘘をついたり物を盗もうとする人はいないし、心も穏やかになろう。問題はそれを実践できている僧侶や門徒が少ない事だが、理念的には浄土真宗本願寺派は仏教の一宗派としていいだろう。伝統ある宗派だけにその良さが活かせてないのは残念だ。 本願寺派の僧侶にも色んな人がおり、もちろんいい人が多いのだが、顔見知りなだけでも結構な変わり者(失礼)も散見される。過去には本願寺派系の病院で他宗派の患者を精神的に追い込んで本願寺派に改宗される僧侶がいたがあれは本当にダメだ(今もやっているのかは知らないけど)。西本願寺の本体が所属僧侶の個人的信条に介入することは... 続きを読む
宝誌和尚立像 5月 04, 2021 京都の西往寺所蔵で京都国立博物館に寄託されている宝誌和尚立像は、映画トータルリコールのように顔が左右に割れ中央部に真の顔が出現するという面白い構図となっています。この像は平安時代の木造で、蓮台に立ち、右に施無畏印、左手の薬壺を持っています。中の顔は(十一面)観音菩薩のものとされており、宝誌和尚が観音菩薩の化身であるとの伝説に由来します。 宝誌和尚は南朝宗〜斉〜梁の時代、5世紀から6世紀前半に漢土に実在した僧で、奇異な行動や予言などの神異で有名となり梁の武帝の尊崇を受けていました。日本でも宇治拾遺物語に、宝誌和尚の肖像を残そうと帝に遣わされた絵師の前で和尚は真の姿を示すと言って親指の爪で額の皮を割き中から金色に輝く菩薩の面相が表れたと伝えられ、西往寺所蔵の宝誌和尚立像のモデルとなる逸話が伝えられています。 宝誌和尚は何か仏教史に残るような事をした訳ではありませんが、その特異な行動が注目を集め、観音信仰と結びついたことにより今に残っているものと思われます。観音菩薩はさまざまな姿に変化していろんな立場の人を救うと伝えられており、ダライ・ラマ法皇や聖徳太子や親鸞上人など多くの人がその化身だとされています。もしかしたら、あなたの隣にいる人も観音菩薩かも知れませんね。 続きを読む
桃花より青松を好む 3月 03, 2022 聖徳太子が三歳の時の逸話です。三月三日に桃の花を愛でながら、聖徳太子の父君である用明天皇が御子に「桃と松のどちらを好むか?」とお尋ねになりました。太子は「桃は一旦のさかえ、松は千年のかがやき」とお答えになり松を選ばれたと言われます。 このお話の桃の花はこの世の諸行無常を、色が変わらぬ常緑樹の松は悟りである真如を象徴しています。 三月三日は現代ではひな祭りですが、古代の日本では女児のためのお祭ではなく、厄祓いの日でした。桃は伊邪那岐尊が黄泉の国から脱出する際にも魔除けの役割を果たしており、この日にピッタリの花と言えるでしょう。そんな日にわざわざ松の方を好むという三歳児は只者ではありません。 和国の教主として人々の幸せを願われた聖徳太子は救世観音菩薩の化身であったとも言われます。何かと悲しいことが多い世の中ですが、聖徳太子以来受け継がれてきた教えを守り和を尊ぶ世界の実現を目指したいものです。 続きを読む
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