十悪と十善

 前回、四悪の話をしましたが、四悪は十悪の四番目から七番目の口による悪でした。今回はその元となる十悪とそれから作られた十善についてお話します。

 十悪は体と口と心が生み出す十の悪行で、一番目から三番目までが身業(体により生み出される悪)で、生き物を殺す殺生、物を盗む偸盗、よこしまな性行為である邪淫があてられます。以前に六波羅蜜の回で紹介した五戒のうちの三つと同じですね。

 四番目から七番目は前回の四悪でお話しした、うそやいつわりの「妄語(もうご)」、誠のない飾り立てた言葉の「綺語(きご)」、ののしる言葉を発する「悪口(あっく)」、人を仲違いさせるための「両舌(りょうぜつ)」、を指します。これらは口業とよばれる口が生み出す悪です。前回は妄語と悪口に焦点をあてましたが、今回は残りの二つを見ていきましょう。
 綺語はどこが悪いのでしょうか?言葉を飾り立てて相手にいい気分になってもらうのは一見よい事のようにも思えます。ですが、飾り立てている内容が嘘なら妄語になりますし、過剰に飾り立てた言葉は相手の慢心を招き、その人の為にもなりません。また、そもそも飾り立てる動機にやましいことはないでしょうか?綺語の多くは権力者などに対して用いられ見返りを期待するものです。それを発する人の貪りの心の現れではないか、よくよく用心しなければなりません。
 両舌はどうでしょうか?仏教はその発祥のころから、悟りを開いた仏と、仏が説いた法と、それを奉じる仲間である僧を、三宝として大切にしてきました。初期仏教で僧といえばもちろん出家僧の事で、大乗仏教でも一般には僧侶の事ですが、後者では悟りをひらく主体はむしろ在家信者であり、仏教を奉じる仲間の和も大切にしてきました。人の仲たがいを誘い和を乱す言葉はまさに言語道断なのです。

 八番目から十番目は、心が生み出す悪であり意業とよばれます。むさぼりの心である貪欲、怒りの心である瞋恚、智慧のない愚かさの邪見(愚痴)、の三つです。数ある煩悩のなかでこの三つは三毒とも呼ばれる、煩悩の根源です。仏教者は煩悩を滅して悟りの智慧を目指して日々生きているのです。今風のロールプレイングゲーム風に言うなら倒すべき煩悩軍団の大ボスが貪欲と瞋恚で、ラスボスが邪見ということになります。まさに悪ですね。

 さて、これが十悪なのですが、では仏教が勧める十の善い行いである十善とは何でしょうか?実はこれまで紹介した十悪の各項目の前に「不」の一字をつけたものです。即ち、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不貪欲、不瞋恚、不邪見、の十善となります。このように仏教では悪いことをしないのが善と見られています。推奨されるべき善行も当然あるでしょうが、それを状況に応じて考える事で正義を振りかざした極端な行為を避けやすくもなります。自分にとっての正しさを見つめるとき、まずはその中に悪が混じっていないか謙虚に検証する心が大切なのです。

 それではまた。合掌。

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