社会浄化の加速

 世の中にあふれる表現は、誰かにとって好ましいものでも他の誰かにとっては不快だ。同好の士が集まる閉ざされた環境では多少の事は問題ないだろうが、その表現が公的な場に出ると一気に紛争が起きる。一定の属性の集団が社会の圧倒的なマジョリティであれば、その嗜好が世の中にダダ漏れになっていても、それを良しとしないマイノリティの声はマジョリティがそれを認めない限り封殺される。だから、こうした好悪の対立が起きるのはある意味で、多様性を大切にしましょうという意見がマジョリティ化している証拠でもある。

 しかし、噛み合わいない価値観の相手を攻撃しあいwhataboutismに陥ると、報復合戦となり社会の公なスペースで可能な表現の幅は著しく狭くなる。同時に、公には許容できない表現は増え地下に潜りセクト化する。いつでもどこでも本音で話す人間はいないように、建前で成り立つ社会が清く正しく美しくあるのは別に構わないし、それで平和が保たれるのならばそれは良いことだ。だが、それと引き換えに目に見えない部分の問題が拡大するのも、いつか大きな問題となり社会の表面に戻る恐れがあり困りものだ。

 戦後日本の社会情勢の推移をみると、ほぼ一方通行性に浄化されており、その勢いは留まるところを知らず加速している。ある勢力が他の勢力の表現を規制すれば、当然ながら反撃もおきる訳でお互いにとって不快な表現を加速度的に奪っていくからだ。この勢いなら、そう遠からぬうちに、日本の社会からは不快な表現がほぼ根絶されるかもしれない。もちろん、途中でこの勢いは落ち着くかも知れないし、大きな揺り戻しがあるかも知れないが、傾向としては社会は浄化されていっている。

 社会の浄化は息苦しい感もあるが、じゃあ昔みたいに犯罪が野放しだったころが良いのかと言われると違う。昭和の時代は、体罰や児童虐待や強姦は犯罪扱いにならない場合が多かったし、殺人事件も多かった。ヤクザの気に入らない家にはなぜかダンプカーが事故で突っ込んだりもしていた。企業や行政のコンプライアンスなんて言葉からして一般的では無かった。要するに割と地獄だった。治安は良いに越したことはない。喫煙者もパチンコ屋もだいぶん減った。個人的には随分と過ごしやすくなったと思う。

 とはいえ過ぎたるは及ばざるが如しとも言う、社会情勢の変化には注意していきたい。

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