他人の正義を理解しても共感する必要は無い
色んな争いごとが起きた時に一部の識者から賢しげに説かれるのは、戦いは両方とも自分が正義だと思ってやっている、というものだ。これは相手側の正義にも耳を傾けて争いを止めようという文脈で使われることが多く、つまり、世間的に悪とみなされる人や集団に対して寛容な態度の人がよく使う論法だ。
もちろん、揉め事の交渉において相手の言い分を吟味するのは必要不可欠であり、相手方が何を正義と思ってやっているのかを理解することは大切だ。だが、それに共感や同意を示すかどうかは全くの別問題だ。
例えば、某陰謀論集団のように、この世は謎の宇宙人や超常的な存在から支配されていて人々は洗脳されているという誤った妄想に取り憑かれた人々がいる。彼らは自分達の仲間を目覚めた人とかと言って他者へ危害を加える。これが彼らの正義だ。この場合に必要なのは、彼らの正義の内容を理解し対策を打つことであり、うんうんそうだね悪い宇宙人が陰謀を巡らせている可能性も否定できないよねと寄り添い、じゃあ目覚めてない人の半分を殺すことで手打ちにしましょうと妥協案を出すことではない。これは、何某民族なんて本当は存在しないという妄想の元に侵略戦争を仕掛ける独裁者や、自分が気持ちよく映画を作るためにスタッフに対するあらゆる暴力や性的搾取は認められるという監督の正義でも同じことで、彼らの個人的正義はあくまでもそれがもたらす社会的脅威への対抗策を考え実行するために理解されるべきもので、共感する必要はないし同意してはならない。
一方で、お腹を空かせた孤児が店先から食べ物を盗んで周囲の大人たちから殴る蹴るの暴行を加えられるような場合は、孤児の生きる残りたいという正義に対して理解と共感を示すべきだし、大人たちの窃盗は許さないという正義は過剰であると嗜めるべきだ。再発防止として然るべき施設に保護してもらうなどの対応が妥当だろう。しかし、この場合それが可能なのは十分な食糧がある場合の話であり、飢饉で多くの人が餓死しそうな状態ではそうもいかないだろう。人が倫理的でいられるためには社会が豊かで安定していなくてはならない。そのためにも、極端で社会の安定を脅かすような個人的正義はその考えを理解した上で、対策せねばならない。
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