感謝の言葉

 布施とは自らの執着を捨てる修行である。お金なり物なり笑顔なり優しい言葉なり労働力なり、それらを送った相手からの見返りや感謝を期待したのならば布施ではない。

 もし、商売や打算で何かを相手にしてあげたのなら、その行為が有効だったかどうかが主たる問題だ。相手が礼を言ってくれればありがたいことだが、礼を言われなかったとしてもどうという事はない。

 もし、もしだ。もしかして相手に礼を言わせるために何かをしてやったのなら、相手が礼を言わなかったことに対して「なんで礼の一言もねぇんだよゴルァ!」と詰め寄って、礼を言わせるという目的を達成する方法論もありうるのだろうと推察するが、そんな無理やり礼を言わせる行為になんの意味があるのだろうか?礼を言われたくて何かをしたのに礼を言われなかったのなら、相手を無礼となじるのではなく自らの不徳を恥じるべきだろう。相手が礼を言うに値しないと判断しているのに恫喝して礼を言わせても反感と不信を招くだけだ。

 みなさん、読んでくれてありがとう。

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