家内安全の祈願
よくある般若心経の写経のお手本には、最後に為の文字の下に願文を書くようになっているものが多い。
小生が初めて写経をした時に、ある種の修行として書いたお経に個人的な願い事を書くのは気が引けたので「世界平和」と書いた記憶がある。以後、大体の願文は世界平和だ。
しかし、写経でも加持祈祷でも良いのだが、別に個人的な願い事をするのは悪くない。まさか神仏に「強盗成功」とか「詐欺繁盛」を願う人はいまい。「病気平癒」だろうが「安産祈願」だろうが「心願成就」だろうが「家内安全」だろうが何かしら人が安らかな気分になれるよう祈るのは良いことだし「世界平和」よりも劣る願いでもない。
例えば、願文として最も無難なものの一つである「家内安全」は家族個々人の安寧やその関係性が良好であるようにと祈っている訳だが、自分の身内だけが良ければいいという貪欲ではなく、限定的な慈悲の心の発露とみるべきだろう。身内に感じやすい慈悲の心を体感出来てこそ、一切衆生に対する慈悲の心にも実感を持つことが出来る。逆に自分の親しい者にも慈悲の心を持てないようでは他人に対する慈悲を持つのは困難だ。
一方で、世の中には家族仲が悪い家庭もあるだろう。お互いに憎しみ合い殺し合っている一族で、もし「家内安全」を願うのならばそれは素晴らしいことだ。なかなかマネできることではない。
もちろん写経や加持祈祷をしたからと言って実際に何かしら超自然的な奇跡が起こることはない。だが、神仏に祈願した事をおろそかにはすまい。家内安全を祈ったからには、暴力やハラスメントを家族に向かって行いづらくなる。心理的にブレーキがかかるからだ。「大学合格」や「商売繁盛」を祈願した人間は、遊び呆けにくくはなるだろう。神仏に助力をお願いして自分が怠ける訳にはいかないからだ。
とは言え、世の中は努力ではどうにもならないことが多い。祈願の大半は失敗に終わる。だが人は、それをあえて願わずにはいられないから、今日も祈願するのだろう。そして祈願したものであれば、例えば「家内安全」が一日間達成された夜に、この成果は自分の努力のおかげだと驕り高ぶること無く「家内安全」を叶えてくれた神仏に感謝することになる。非科学的だろうがなんだろうが、ちょっと良さげな目標は祈願するべきだ。
加持祈祷をオカルト的だと批判する人達もいるが、祈願は呪いや魔術ではなく、あくまでも祈りだ。そして仏教的には良い行動は現世か来世かは分からないが良い結果につながると信じられている。この考え方では、祈った結果として良いことが起きるのは当然だ。そもそも仏教は哲学や科学ではなく宗教なのだから祈って問題ない。
なお浄土真宗では加持祈祷や仏に何かを願って祈る事は禁止されている。逆に仏の願いによって生かされているとの解釈なので、祈りのベクトルが逆で、信者は願われていることに感謝する形となる。この場合、全ての生き物の成仏も各ご家庭の家内安全も既に仏から願われていることになる。
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