お気持ち
小生が若い頃と比べて「お気持ち」という言葉の意味はだいぶん変わっており、昨今ではヤクザのように、自分が嫌な思いをしたとして相手に無理難題をふっかけることを「お気持ち」と呼ぶ場合も多いようだ。
大きな価値観の相違がある集団が同じ社会にいるとき、必然的に対立が生じる。対立は、戦いと妥協を重ね共存できる状態で安定するか、片方が滅び去るかして安定する。そして、安定しているように見える社会でも、対立は常に生まれ続けるので、社会から争いが消えることはない。
もし、ある社会問題に関してのマジョリティが圧倒的に強く変化が起きない状態であれば、対立も起きないのだが、そうした状態では実は多くの抑圧された人間が苦しんでいるのが常だ。そしてマジョリティの力が弱まった時、かつて抑圧される弱者だった人々の不満が表面化して争いが生じる。
社会の常識は結構めまぐるしく変わり、いつの世でもその変化について行けなかった者は古臭い人間として叩かれる。その時代時代の社会常識に挑むそれまでの弱者たちは自分達の気持ちも分かってくれよと訴えるのであるから、旧体制を守ろうとする者たちから見ていわゆる「お気持ち」の形になるは当然であり、何か不満を訴えている人がいる時に「お気持ち」であると感じたのであれば、まずその訴えている気持ちが本当に理不尽な物なのかどうかは慎重に吟味しなくてはならない。
痴漢の問題もそうだ。昭和時代でも問題にはなっていたが、当時は今と比べて痴漢に対する法的社会的な対処は極めて軽かった。高齢者の中には挨拶のように痴漢行為をする人がいるが、恐らく彼らは何が悪いのかを理解していない。圧倒的な男社会だった昔は、痴漢行為を含めて女性からの性的搾取は事実上容認されていた。しかし、ここ30年ほどで、その常識は失われ、今や痴漢の犯人は法的に取り締まられるのはもちろん社会的にも抹殺される。今でも女性の約半数は痴漢被害の経験があるという。ざっと見積もって人口の25%ほどが被害者だし、その家族も入れれば恐らく被害者の方が人口的には多い。社会の常識が変わった今、彼女らが痴漢を是とする人たちに抵抗するのは決して「お気持ち」ではない。逆だ、既にマジョリティは入れ替わっている。今でも痴漢を賛美する人間は早めに考え直した方がいい。
コメント
コメントを投稿