Books are burning.

 第二次世界大戦後の世界では、言論と表現の自由は特に大切にされてきた。これは、あの大戦争の発端が言論や表現を弾圧し世論を誘導したファシズム国家によって引き起こされたからだ。連合国側もやりはしたが程度の差は大きい。こうして、独裁者が恣意的に情報を統制するのが如何に危険かを身をもって体験したから徹底的にこれらの自由は尊重されてきた。それ以前でも、本を焼く者は次は人間を焼くようになるという19世紀に活躍した作家ハイネの言葉がある。この言葉は1992年にリリースされたイギリスのバンドXTCの曲”Books are burning.”でも用いられている。人間社会において、本は古くから知識と知恵の象徴であり、各国の支配者によりしばしば燃やされてきた。過去から現代に残る書物が凄いのは、様々な弾圧や、それぞれの時代の異なる評価に耐え、なお価値があるものとして生き残ってきたことにある。古代にだって今には伝わっていないつまらない本もあったはずだ。それらは書写されることなく消失していくし、何度焼かれてもその価値が認められた本は復活する。そうした歴史のフィルターによって淘汰されたものが古典なのだ。

 しかし、最近では本を焼き人を焼くのは必ずしも権力者ではない。例えば、ここ3年で訪れた3つの世界的危機の黒幕たちもそれだ。一つはQアノンに代表されるようなネットの妄想的情報で動くテロ組織、一つはコロナ関係の陰謀論者、一つはロシアの侵略を支持するファシスト達、これらは世界に取り返しのつかない傷を与えたが、おかげで人類はその敵をはっきりと認識出来た。彼らは妄想を真実だと信じて、他の意見を暴力的に破壊しようとする。さらに、彼らが流す情報は、それを信じた人間やその人が所属する社会を危険に晒す。

 昔は本を出版するのは大変だった。お金もかかるし、出版社から審査もされた。それが今では自費出版を扱う会社も増えたし電子書籍もある。また、情報を拡げるだけならSNSでも十分だ。少数の人間が大量に再生産する陰謀論は、多くの人のが支持する正論を情報量で圧倒することもあり危険だ。言論の自由も表現の自由も大切だが、無制限ではない。歴史的に焚書が否定されてきたが、それを実施した権力者の本を焼く自由や言論を弾圧し逆らうものを殺す自由など認められる筈がない。しかし、昨今ではレイシストや陰謀論者が、彼らが思うがままに他者を迫害できないのは言論や表現の自由に反すると叫ぶ場合が多く見受けられる。彼らは実際に敵対勢力を対象とした殺人や障害事件を起こしており、それに恐怖した市民は沈黙してしまう。過度な自由が生んだ弊害だ。寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない。

 しかし、たとえ相手がレイシストや陰謀論者であっても、他者の言論を抑制しようとする時には、何かしら暴力の裏付けを必要とするのは覆せない事実だ。例えば日本におけるヘイトスピーチの禁止は司法と警察の暴力により担保される。また、圧倒的多数派の前に少数派が沈黙するのは、潜在的には相手の暴力行使の可能性を排除出来ないからだ。それ故に、いくら危険でおかしな事をいう人間相手でも、慎重になるのが自由主義国の常だ。だが、程度というものがある。HPVワクチン陰謀論を主導し多くの女性を殺した新聞社は今日でも存続しており、新聞の広告欄には今では新型コロナウイルスワクチンに関する陰謀論を唱える本や雑誌の広告を載せ更に殺人数を増やしている。もはやテロ組織だと言っても過言ではない。彼らの圧倒的な情報提供力の前に正しい医療知識は人々の認識の外に焼き出され多くの人が殺された。本は今でも燃やされているのだ。彼らの暴挙を止めるのは決して言論の自由の弾圧ではなく、生存をかけた戦いだ。

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