想像力の欠如と教育
ウクライナを侵略したロシア軍が撤退した後の町や村で、多くの非戦闘員の市民が一様に後頭部を撃ち抜かれている。縛られた状態で撃たれた人もいた。この状況を見ても一部の日本人は戦闘に巻き込まれたのだから仕方ないとする人がいる。だが、ウクライナで死んだこれらの市民は決して戦闘に巻き込まれたのではない。単に市街戦に巻き込まれただけの市民が決まって後頭部ばかりを撃ち抜かれる訳がないし、わざわざ縛ってから撃たれるはずも無い。彼らはロシア軍の占領下で処刑されたのだ。明らかに戦時国際法に反している。
また、ウクライナから略奪されたスマートフォンや宝石類が多くベラルーシの市場に出回っていると言う話を聞いても、戦争だから仕方がないという日本人がいる。日頃から身につけて携帯していることが多いスマートフォンや、有事の際に持ち歩くことが多い宝石類が、略奪されたということは、空き巣に入ったのではなく直接人から奪った可能性が高いと言うことだ。奪われた側は果たして無事だろうか?
なんで、こんな簡単なことも想像できない日本人がいるのか?それは日本の教育に問題があるからだと思う。戦争はとにかく絶対悪であり悲惨であり語ることも考えることも許されないと言う風潮が日本の教育界では目立つ。だから侵略と自衛の区別もつかず、どっちもどっち論に行き着いてしまう。不幸にして戦争となっても最低限守るべき約束事があるのも知らないから、戦争だから仕方がないなどと言う無慈悲な言葉が出てくるのだ。
こうした日本独自の歪んだ戦争観は、世界中では日本だけが戦争を放棄した憲法を持つという神話に支えられているが、これも間違いだ。世界中の大半の国は戦争を放棄している。世界的な常識では戦争とは侵略者が始めることであり、戦争になるから自衛してはならないなどということはない。日本国憲法第九条の戦争の放棄は侵略の放棄であり自衛権を否定はしていない。元ネタとなった国際連盟の理念を考えれば当然だ。なお、国連憲章でも戦争は禁止されているが、これももちろん侵略の禁止であり自衛権は集団だろうが個別だろうが認められている。だから、日本国の戦争放棄も憲法第九条も、世界的にはごくありふれた普通のことであり、特別に日本が素晴らしいわけではない。世界中で日本だけが戦争を放棄したのだという妄想を根拠とした思い上がりで、左翼たちは諸外国を戦争を放棄していない蛮族よと見下してきたのだ。そんな慢心が、侵略を受けた者をも戦争を行う悪い奴だと決めつけ非難する愚行を生むのだ。
だが、これは単に左翼だけが悪いわけではなく、吉田茂からの流れを汲む保守側の政治家たちも、この平和憲法を口実として集団的自衛権に関わるのを避けてきた。地域や世界の平和に一切貢献せずに、その利益だけを得ようとする恥ずべき方針だが、東西冷戦下にあっては日本の赤化を避けたいアメリカの足元を見たこのような強硬な外交が可能だった。
こうして、左右ともにこのデタラメな自国のみが良ければ世界がどうなっても構わないと言う身勝手極まりない憲法解釈をもって平和憲法だとする幻想を後世に伝えてしまったがために、日本は戦火に苦しむ人に同情せずに戦争をする悪人よと決めつける無慈悲な畜生に堕したのだ。歪んだイデオロギーから世界を見ると、人の心は容易に悪に染まる。偏った思考から離れウクライナで何が起きているのか見れば、人として何をすべきは自ずと分かるはずだ。
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