敵は全て鬼畜なのか?
意見が対立した相手を評する場合、話を盛って批判する人がみられる。そんな酷いことを言う人はきっと他にこんな酷いこともしているに違いないとかならまだマシな方で、証拠もなしに他にこんな酷いことを言ったりしたりしていると断言するし、主語がデカイ。だいたいは意見が対立している他人全員がそうだと主張する。
そんな馬鹿な話は無い。誰かと一つの意見が自分と違えば、他の全ても自分の気に入らいない意見をもっているなんてことはありえない。
なぜ、こうしたことが起きるのか?結論から言うと怒りのままに相手を叩きたいからだ。相手に交渉の余地があっては思いっきり殴れない。だから敵は話の通じる人間ではなく鬼畜でなければならないのだ。
こうした問題は白黒がはっきりつく自然科学の分野においては起きにくい。もちろん、片方が科学の話をしているのに、もう片方が妄想を語っている場合はその限りではない。
例えば、反ワクチン陰謀論の人は、ワクチンの効果を正しく説明する医者に対して、こんな怖いワクチン接種を薦めるお前は悪の秘密結社の構成員で人を殺そうと企んでいるのだなどと意味不明の指摘をして全否定にかかる。
いわゆる表現の自由戦士と揶揄される人達も同様だ。レイシズムやミソジニーに基づく正視に耐えない恐ろしい著作物の流通に対しても一切の制限を加えてはならないとする彼らは、反対する者を画一的な悪魔に落とし込もうとする場合が多い。以前に販売されていた歴史学的に明らかに間違っているユダヤ陰謀論の本が出版社により自主回収された時も、言論の自由に反すると主張し、この弾圧こそ陰謀が存在する証拠だなどと馬鹿げた事を言っていた。同様の事例は枚挙にいとまがない。その妄想はもはや手に負えない。
一方で、軍事的侵略を受けた国の国民から見て敵が鬼畜に見えるのは、侵略自体が鬼畜的行為なのであながち間違いとも言えない。しかも、侵略国の指導者も相手こそが酷いことをしているのだというデマを侵略軍兵士に信じさせる。そうでないと人を殺せないからだ。こうして戦争は行き着く所まで終わらなくなる。戦火を交えぬ平時の争いも、戦争のような側面はあり、無理筋を通してきた方が無茶苦茶な理屈で相手を悪者にしたてて叩くのだ。
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