もしも社会福祉制度が無ければ
ネットなどでよく見られる福祉不要論だが、とんでもない話だ。確かに過重な福祉は国庫を圧迫しうる。だが、弱者を助けることが無駄であり社会の負担だという意見は間違っている。社会福祉は単なる慈悲ではなく、安定した社会の維持の為には必要不可欠だ。
もし、社会福祉制度がなければ、老衰や怪我や病気で介護が必要となった場合に生活の質を保って生き残れるのはごく少数の富豪のみとなる。小金持ちでも生存は可能かも知れないが、国民の圧倒的多数である貧乏人は苦しみながら死ぬしかなくなる。そのような状況では、貯金をする余裕がある人は介護に備えお金を使わずに貯め込むようになって景気は減速する。また、経済的に余裕がない人は刹那的となり犯罪が増加するだろう。福祉は富の再分配の意味もある。そして、福祉制度が整っている安心感があるから国民は安心して働ける。要介護者は納税者の負担だから殺せなどという思想が支配的な国では社会も荒もう。実際に弱者を標的とした殺人事件がおきると福祉不要論に基づき、殺人犯を褒め称える人が出現するが彼らは非道徳的であるだけでなく、福祉がなくなることによる社会の負担を何も分かっていない。
先日、デイケアサービスで利用者に古典などを学校の授業風に教える取り組みが紹介されたところ、認知症の老人に無駄な税金をつぎ込んだとして烈火の如く怒る人達がいた。彼らは何か勘違いしているようだが、デイケアで経営者が学校風のサービスを提供しても介護保険で認められる単位数までしか公的資金は支出されない。あとは利用者の手出しであり、高額なサービスをわざと利用させて補助を多くもらうことは不可能だ。また、利用者の注意が一点に向く授業形式は安全管理の面でも優れている。もちろん、利用者の満足が第一であり人気を博しているのなら続けてよいだろう。そもそも認知症と言っても程度には大きな差があり、この取り組みに文句を言っている人らは、何も分からぬ寝たきりの重症の認知症患者を想起しているのかも知れないが、軽度の認知症なら人間らしい生活は可能であり福祉の精神からは生活の質をなるべく保つように努力すべきだろう。
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