昭和天皇

 4月1日に公開されたウクライナの対露戦支援の呼びかけ動画に、先の大戦のファシストの象徴として、ヒトラー、ムソリーニに加え昭和天皇の写真が使われていた。これに対し日本国内から反発がおき、外務省からもウクライナ政府に対し正式に抗議したところ、昨日、当該部分の写真は前二者のみとなりウクライナ政府が謝罪するという事があった。

 ウクライナは戦時中はソ連に属しており連合国からの歴史的視点では、昭和天皇は紛うことなき大日本帝国の最高責任者であるのだから、こういう動画が作られても不思議はない。だが、日本側の立場とすれば、戦後に臣下の者達が文字通り命を捨てて陛下への責任追求を回避させたのであり、そのナラティブをひっくり返されては困る。この考えに日本国民の全員が賛同している訳では無いが、戦後からほぼずっと昭和天皇に戦争責任なしとする政党が政権与党をつとめてきたのであり多数派だと言えるだろう。日本政府がウクライナ政府に抗議したのは妥当だ。

 昭和天皇がファシストの首魁のように扱われた事に不満をもった日本人は多かったが、ざっと見たところは高齢者と若者で怒りのベクトルがちょっと違ったように思われる。若者は人間としての昭和天皇に失礼だろうというものが目立つが、高齢者が問題にしているのは主に国体だ。

 日本国憲法においても天皇は日本国の象徴だが、これは国体思想の現代語訳としては分かりやすい。つまり天皇にケチをつけるのは日本にケチをつけるのと同じであり、天皇=日本なのだ。

 国体は使う人によって意味が変わると言っても過言ではない漠然とした概念だが、共通している考えは、日本というのは天の神の子孫である天皇が中心となって大家族のような国を形成しているというものだ。だから天皇なしに日本は成り立たないというのが基本的思想だ。

 宗教的に見た場合も、天皇陛下は皇祖神と一体化した神であり、しろしめすべき国土日本をその神性の中に取り込んでおり日本そのものでもある。だから、もし今、日本国民の誰かが死んでも、明日も日本は日本であり続けるが、もし天皇陛下と天皇になりうる皇族が何らかの理由で全滅すれば、その瞬間に日本は滅びる。仮にそうなっても、国土と国民がいれば実務上も国号上も日本は残るだろうが、それは正確には日本ではなく日本によく似た別の何かという解釈だ。

 人間宣言はしたものの昭和天皇は国体の中心概念たる現人神だったのだ。昭和天皇のお言葉の締めは「切に望みます」だったり「希望します」だったりすることが多かった。平成以降の天皇陛下は「願います」や「祈ります」でお言葉がしめられることが多い。つまり、平成以降の天皇のお言葉が願いであるのに対して、昭和天皇のお言葉は意志の表明だ。神がかくあれと命じている形式とも解釈できる言い回しだ。

 こうした経緯から、高齢者からみた昭和天皇は崇拝している人も嫌悪している人もその思い入れの深さが若者とは違う。もうすぐ昭和天皇の誕生日がやってくるが、この時期に日本政府が正式な抗議に踏み切ったのも、こうした思いがあるからかも知れない。

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