タリバンあるいはイスラム教原理主義の視点
日本にいてもイスラム教徒の人達と触れ合う機会はあるだろう。トルコ系、アラブ系、ペルシア系、南〜東南アジア諸国の人達などなど、世界には多くのイスラム教徒がいる。その中でも日本に在住しているイスラム教徒を見てそれがイスラム教徒の平均的な姿だと思ったら大間違いだ。いわゆるイスラム教原理主義者からみた日本は悪と混沌のるつぼであり、攻撃目的以外では訪れようとも思わないだろう。だから日本に住んでいるイスラム教徒の大半はそういう日本の文化に一定の理解と妥協を示す穏健な人達だし、そんな彼らは原理主義者からみたら日和見の裏切り者だとも言える。もちろん日本にもいつかテロを起こすことを狙って潜伏している原理主義者もいるだろうが少数だろう。また原理主義者は原理主義者と呼ばれる事を嫌う、なぜならば、イスラムの教えは一つであり絶対であって原理主義とそれ以外に別れてはならないものだからだ。ともあれ、日本にいて触れ合えるイスラム教徒をみてタリバンやアルカイダやISも同じだろうと考えると大きな誤解を生むことになるのは間違いない。
小生は、以前某人権団体の役員を務めていた関係でイスラム教徒とのつきあいも多かったが、日本在住のイスラム教徒と海外のイスラム教徒を比べると居住地の文化の影響を受けるせいか、やはり日本の方が穏健派である事が多かった。原理主義者との交流は無かったが、一口にイスラム教徒と言っても千差万別であるのは覚えておいてほしい。今回はいわゆるイスラム教原理主義者たちはどういう価値観をもっているのかを異教徒の日本人として理解出来る範囲で解説していきたい。
まず、多くの日本人が理解していないのは、イスラム教は政教一致が原則だということだ。現在、多くのイスラム教圏の国で政教分離がなされているが、本来の教義に従うのなら邪道だ。イスラム教徒はウンマと呼ばれる信仰をともにする共同体に所属しており、神の啓示であるクルアーンと預言者ムハンマドの言行録であるハディースを法源としたシャリーアと呼ばれる法により支配される。これは神の定めた法であり、人間が作った法律より上位であることはもちろん、人間が人間を縛る法律をつくりそれを尊重することは神以外の権威を認めることになり許されない。同性愛や姦通が死罪になるのは理屈ではなく神がそう定めたからであり異論を差し挟む余地は無い。神が下した絶対の法を前に、人間ごときがその矮小な理性で法律や道徳を創造するなど神への冒涜に他ならない。だから、イスラム教原理主義者的な考え方では、政教分離など言語道断なわけだ。彼らの理屈では政教分離するような政体は倒さなければならない。
さて、上記の様に同性愛や姦通は死罪であるが、アフガニスタンでタリバンにより多く殺された女性のジャーナリストや教師や学生はそのような罪を犯してはない。彼女らはいずれも西洋風の教育を受けており、これが不信心あるいはイスラムに対する侮辱とみなされたのだ。イスラム教のシャリーアは事細かに決められている。この中の禁止事項には当然殺人もある。だから敬虔なイスラム教徒である原理主義者が殺人をおかす時は、なんらかの法理に基づいて殺人を犯していることになる。クルアーンには不信心者の斬首をするように神が命じており彼女らが不信心者なら殺人には該当しない。また、スンナ派では棄教も原則的に死刑であるから、西洋かぶれしてイスラムの教えを捨てたと判断されれば死刑執行の理由になる。
ノーベル平和賞を受賞したマララさんがタリバンに殺されそうになって一命をとりとめたあと、タリバンの幹部はマララさんに手紙を送っている。その中で、タリバンは女性の教育を禁じているのではなくマララさんが反イスラムキャンペーンを行ったから撃ったのだとしている。また、地元に帰り神学校に入ってクルアーンを学ぶようにも言っている。タリバンは女性の教育を禁じてはいないが、彼らは教師は預言者ムハンマドでクルアーンを教科書とし預言的カリキュラムによる教育しか認めていない。それ以外は悪だ。つまり、西洋の学問を学ぶのは反イスラムだと定義づければ当然ながら女学生は死刑の対象となるということだ。
女性の教師やジャーナリストが殺害されたのも彼女らが反イスラムとみなされたからに他ならない。イスラム教では、成人女性は家族以外の前で素顔を晒すのを禁止されているのに公共の放送や衆人環視の前で仕事をするのは神の教えに反するからだ。そればかりではなく、これらのジャーナリストや教師はシャリーアに基づかない西洋風の教育や報道をするので反イスラムだ。反イスラムは死刑の対象なので、死刑を執行したと解釈できる。
預言者ムハンマドを侮辱したとされる小説「悪魔の詩」の訳者が殺害されたのも、同じくムハンマドを侮辱した漫画を載せたシャルリー・エブドの編集者が殺害されたのもシャリーアから判断すれば正当な死刑執行に過ぎない。
更に、前述のようにイスラム教では同性愛は死刑の対象なのでLGBTとイスラム原理主義者との共存は本来的にありえない。
なお、これらに対していくら原理主義者に反論して無駄である。これらは神が決めた法であり覆す術はない。
もちろん、こうした原理主義者と違い、一般のイスラム教徒はシャリーアに基づき人殺しを罪だと考えており、そうやすやすと人を殺したりはしない。結局のところ原理主義者と一般のイスラム教徒との差は、シャリーアの解釈の違いにつきる。だが、原理主義者のようなシャリーアの解釈も可能であることは忘れてはならない。彼らの視点でみれば、女性から人権を剥奪し武力で神の法に従わない人たちを屈服させるのは正義を執行しているだけだ。
タリバンがアフガニスタンを制圧したのは、民意を得たからだと言う人もいる。だが、少なくとも女性や性的マイノリティーの人間の支持はほぼ得られてはいまい。得られているのは発言権がある武器をもつ男たちの民意だろう。
なお、念の為に言っておくがこのような極端な解釈はあくまでも原理主義者のそれであり、この文章を読んで一般のイスラム教徒を差別することはあってはならない。
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