人の好き嫌いで批判の程度を変えたらいけない。
国や自治体や組織の責任者あるいは有名人などは何かと批判にさらされやすい。無名な者が何かやらかしても批判してくるのは直接の知り合いくらいだから、有名人の問題に対して批判者が多くなるのは仕方ないだろう。無名な他人がどんな批判を受けているのかはわざわざ調べでもしない限り知りようもない。職場や家庭の身近な批判の数々も極論すればローカル・ルールであり、どの程度からが批判対象となるのかは、個々人の常識や経験に左右される。そんな中で、有名人の不祥事が発覚すると起きるSNS上などでの批判大会は、他の人々の批判の基準がどのような傾向にあるのかを知る貴重な機会でもある。
そんな観察をしていると気づくのは、批判の基準がどんな悪いことが行われたかによらず、誰がやったかによって批判の程度は大きく変わるということだ。ある人にとって嫌いな人間がちょっとでも何かした時は苛烈に攻め立て、逆に好きな人がちょっとしたことで責め立てられていると擁護に回ったりする。これはいけない。例えば弱者をいたぶって楽しんだと自慢話をする人でも近い立場にある人からは擁護されたりする。悪いことをしたのが自分の親兄弟や友人であったとしても、それは悪いことだと指摘するべきだ。逆に遠路はるばる訪れた客がトイレなどで少し遅刻した時、それをやったのが評判の悪い人だと罵詈雑言を浴びせられがちだが、この時に激しく批判する人はもし仲のいい人が同じ事情で1分遅刻しても同じ様に責め立てるのかはなはだ疑問だ。
人は気に入らない人には何かと理由をつけては批判の名を借りて叩きたくなるし、好きな人には何かと理由をつけてかばいたくなる。こうした怒りや貪りは判断を歪める。誰がやったかではなっく何が行われたかによって批判は行われるべきだ。自分が嫌いな人を批判する時は自分の好きな人が同じことをした場合の事を想像し、自分が好きな人を批判する時は自分の嫌いな人が同じことをした場合の事を想像して、どちらも同じ批判でなければ、それは行為に対してではなく「誰が」やったかに依存した批判だと言える。
だが、完全に「誰が」から自由になれる人間もいないだろう。だから日頃の行いは大切だとも言える。毎日毎日悪いことばかりしている人が警戒を受けるのは自然なことだからだ。用心していきたい。
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