宇宙の広さと人の儚さ
以前、器世間の回で話したように仏教の先人たちが想像した宇宙はそれ自体が輪廻転生すると考えていた。サイクリック宇宙論にも似たこの考え方が本当に正しいのかどうかは別として、仏教徒にとってこの世はずっと変化し続けるもので諸行無常だという考えは今に息づいている。また、器世間の広さに関しては直径2.7×10の46乗光年と想定していたと思われ、現代科学が想定する観測可能な宇宙の直径である930億光年よりはだいぶん広いが、表現に指数タワーを要する観測不可能な範囲も含めた宇宙の広さの推測値から比べると無に等しいレベルで狭い。この辺は巨大数の研究が未発達だった古代の想像力の限界だろうが、現代科学をもっても観測不能な領域の宇宙の広さは推測の域を出ないだろう。ともあれ通常の人間の感覚では無限に近い広さの世界を古代の仏教徒も想定し、同時に自らの小ささも実感してきたと言える。果てしなく広い宇宙からみると、地球や社会は微塵にもならない小さなものだ。実際に宇宙規模の力の前には人類など次の瞬間に絶滅してもおかしくはない。
地球上にあるどんなに確固としたように見えるものでも実はものすごく儚い。そんな中で無駄に争うことなく穏やかに過ごせるようにしたいものだ。だが、人の世は常に無駄な争いに満ちている。
一部の人は自分の愚かさに気づかずに誤った事を信じ、それを根拠に他人に怒りをもって襲いかかり、目先の小さい利益を貪る。そんなことで儚い地球の更に儚い人間の命を虚しく消費する。なんとも哀れだし、無駄な争いを引き起こす元ともなっている。もちろん、人が愚かなのは仕方がない。人は全知でも全能でもないからだ。だが、それから怒りと貪りを排すれば、話し合う余裕も出てくるだろう。
たまには星を見て自分の小ささを思い知り、自分は一体何をやっているのだろうと振り返ることも大切だと思う。
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