自力と他力

 暦は違いますが1月25日は浄土宗の開祖である法然上人のご命日です。仏教の伝統的なフォーマットは僧が修行を積んで自力で仏に至るというものでしたが、法然以後は、阿弥陀如来の他力による成仏という考え方が日本に広がっていきます。これは各宗門間の抗争の原因ともなりました。本日はそんな自力と他力に関して考えてみます。

 まず、日本の伝統宗派で最も他力を強く主張するのは、法然の弟子の一人であった親鸞が開祖となった浄土真宗です。真宗では、信仰心も唱える念仏も門信徒が主体的に阿弥陀如来を信じ称名念仏している訳ではなく、如来の本願力が他力として働いた結果、各人が如来を信じて念仏申し上げていると解釈しています。そこに自力の要素は無く、門信徒は他力の救いを感謝するのみとなります。一般的な仏教徒が修行として善行に励み功徳を積む行為も、真宗では否定されます。善行は修行のためでなく、如来の本願力を受け自然に行うようになるものと信じられています。それゆえに真宗では祈祷や占いや真言・陀羅尼などは禁止されています。

 その他の宗派は、浄土宗でも四修など修行のような考えがあり、また陀羅尼の入った経典も唱えますので程度の大小はあれ自力の要素は存在していると言えます。さて、その中で最も自力を重視する宗派は曹洞宗かと思いますが、では曹洞宗が絶対自力なのかと言うと他力の要素も含んでいます。道元禅師が南宋からの帰路、観音菩薩に祈り水難を逃れた話などは有名であり、決して自力に慢心していた訳ではありません。

 そもそも論として、日本に伝わった大乗仏教ではこの世の一切が仏の現れであり全ての存在に仏の因子が内在されているとする如来蔵思想がベースとなっています。この場合、自力とは自分の内外にある仏の他力に任せる努力とも換言できます。我が我がとの邪見を離れれば、自ずと仏性に目覚める訳です。こう考えると全ての日本仏教の宗派は他力であるかのようにも見えますが、浄土教系の他力本願とは、この邪見を離れようとする自力の努力をも如来の他力に任せようと言う発想と言えます。

 こうした他力の発想により得られた心の平穏と、自力の修行により得られた心の平穏を比較した場合、後者は自分の努力の成果だとの慢心を招きやすく、前者は自分をつつむ他力への感謝が生じやすいので、一見すると他力の方が良いようにも思えますが、他力という意識がある方が煩悩に呑み込まれがちな印象もあります。そうならない様に、法然上人は無間修や長時修といい、常に仏を念じる様に勧めていました。浄土宗のこの部分は自力では無いのかという疑問もありますが、真宗的解釈ではこれは自力では無く如来の力によるとされます。

 解釈はともあれ、自分の内外の他力に感謝する時間をもつと心が落ち着くものです。南無阿弥陀仏。

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