コロナ禍の時代における人の慢

 慢は仏教で説かれる煩悩の一つで、おおざっぱに言うと自分と他者を比較し自分を過大評価して思い上がる事です。そもそも仏教の基本的考え方では自分とは全体の関係性の中で成り立つ移ろい行くかりそめの物に過ぎないのですから、自他を比較して良し悪しを論じるのは誤った物の見方ということになります。

 コロナ禍にある現在でも社会のあちこちで慢が見られます。一部の健康な若者の中には、高齢で持病がある人達は自分たちの税金を食いつぶすだけの価値が低い存在なのに、その人達を守るために生活が不自由になるのは納得がいかないと言う人までいます。これは他人を見下し差別する慢と、自分は何があっても健康であるという思い上がりの慢とが合わさった考え方です。強く我欲にとらわれるとこのように恐ろしい邪見を生み出してしまうのです。

 さて、自他を比較しなけば慢は生まれませんが、俗世を生きていくうえで完全に比較を避けるのは難しいものです。健康か病弱か、知能が高いか低いか、裕福か貧乏かなどの違いはどうしても目につきます。しかし、慢が先の例のように恐ろしい方向へいくのは、その人に貪欲さがあるからです。コロナなんて気にせずに自由に生きたいというのは人間として当然の欲求といえますが、自由にしたいがために他人を自分より劣っているとみなし、その命なんてどうでもいいと考えるから慢となるのです。確かにコロナ禍で生活が不自由となり経済的に苦しくなっている人が多くいるのは問題ですが、それは公的な支援が十分に出ればある程度は緩和されます。弱者の命を価値が低いとみなす事で自己の公衆衛生に反する行いを正当化するよりも、財政出動を促す陳情でもした方が健全です。自他を比較するよりも、自他の隔てなく平等により良い状態を目指す心が大切です。

 一方で、こうした老人や病人をゴミあつかいにして好き勝手にしよとする人を、良心が無い悪人だとして叩くのも慢です。彼らはそのような歪んだ物の見方をする悲しい存在であり、攻撃では無く救済の対象です。説得が通用するかは分かりませんし、場合によっては強硬な対応をせざるを得ない場合もあるかも知れませんが、相手は悪人だから死んでも構わないなどと思えば彼らと同じ理屈にとらわれた事になります。

 また、人は油断すると誰しも慢に取り憑かれます。常に自分の心を観察するのも煩悩を防ぐのに有効な手段です。他人の慢はすぐ気づきますが、自分の慢は気づきにくいものです。用心してまいりましょう。

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