新年あけましておめでとうございます。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 01, 2021 新年あけましておめでとうございます。令和三年の元旦を迎える事が出来ました。 今年もコロナ禍は続いており、初詣の行かれる人も少ないかと思いますが、各寺院では元旦の法要が行われていることでしょう。離れていても祈る心は広く人々とともにあります。 難局にあっても心静かに祈りを捧げましょう。心の平静を保つことは仏教の基本でもあります。皆様の心が安穏でありますように。南無三宝。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
浄土真宗本願寺派の不祥事 9月 18, 2022 このところ浄土真宗本願寺派の不祥事が目立つ。全国の幼稚園の団体での本願寺派住職よる6億円以上の巨額横領事件、本願寺派と懇意にしている芸能人やアナウンサーなどによるロシアの侵略擁護発言、直近では本願寺派の若手僧侶の動画が炎上した。 動画に関しては真宗の教義に照らしてもその発言内容はいかがなものかと思い質問したのだが、本人がそういう意図ではなかったと言っており、本願寺派の僧侶や門信徒もあまり問題視していない。現在は動画内のふざけた行為(本人はその意図はないと釈明)が主に他宗派から糾弾されている形だ。この炎上の一因として考えられるのは、本人は後で反省したような事を言っているが、当初の批判にはかなり挑戦的攻撃的に反論していたのも火に油を注ぐ形となったように見受けられる。 また、不祥事ではないが、教義面においても2018年に発表された自力の行を認めるかのような門首のお言葉にも動揺が広がった。この教義解釈の変更は他宗派への歩み寄りのようにも見えるが、軸がぶれている感は否めない。若手僧侶に影響がなかったと言えば嘘になるだろう。 では本願寺派はどうしようもないダメ宗派かというと一概にそうとも言えない。少なくとも浄土真宗も浄土教の基本的なフォーマットは保っており、他宗派の一部の人から言われる浄土真宗は仏教にあらずとの批判は正しくないと考える。むしろ浄土を絶対視し、それ以外のこの世を徹底的に穢らわしいと見る発想は、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、を他宗派よりも強く念じているようにすらみえる。戒律が存在しないのも叩かれる材料ではあるが、御恩報謝の思いで仏を念じていけば、自ら意図せずに戒を守るように成長する。常に強く仏を念じながら人を殺したり嘘をついたり物を盗もうとする人はいないし、心も穏やかになろう。問題はそれを実践できている僧侶や門徒が少ない事だが、理念的には浄土真宗本願寺派は仏教の一宗派としていいだろう。伝統ある宗派だけにその良さが活かせてないのは残念だ。 本願寺派の僧侶にも色んな人がおり、もちろんいい人が多いのだが、顔見知りなだけでも結構な変わり者(失礼)も散見される。過去には本願寺派系の病院で他宗派の患者を精神的に追い込んで本願寺派に改宗される僧侶がいたがあれは本当にダメだ(今もやっているのかは知らないけど)。西本願寺の本体が所属僧侶の個人的信条に介入することは... 続きを読む
ツァルツァー・ナムジル 3月 27, 2021 モンゴルの昔話にツァルツァー・ナムジルというものがあります。ツァルツァー・ナムジルという名の愚か者がお寺に住んで三年間お経を教わりましたが、全く習得できずお寺の僧にもう家に帰るように言われます。最後に一つだけでもと教えを乞うツァルツァー・ナムジルに僧はお経を教えず、帰る途中に起きる全てをよく見て覚えればそれが良い知恵となるだろうと答え、ツァルツァー・ナムジルは教えを受けることが出来ずに帰路につきます。その道中、様々な勘違いから王様の信頼を得て宝物をもらい、その後は郷里に帰って正直に幸せに生きたという話です。 ツァルツァー・ナムジルが寺を出るときに言われた自分の周囲に注意を払う行為は、仏教の八正道では正念であり今風な呼び名だとマインドフルネスと同じことだと思われます。モンゴルはチベット仏教の文化圏であり、昔話にもその影響が出ているのかも知れません。物語の最後も王様の元で栄誉栄華を極めるのではなく、故郷で正直に暮らすことを良しとするあたりがいかにも仏教説話的な昔話です。 モンゴルの昔話というと日本ではスーホの白い馬が有名ですが、あれは中国共産党に占領されたあとの南モンゴルで創作された共産主義イデオロギーのプロパガンダ目的の児童文学でありモンゴルの文化を反映したものではありません。まあ、話自体は面白いのですがモンゴル人に言わせると違和感のある内容だとのことです。そんなわけで意外と日本では認知度の低いモンゴルの昔話については以下にリンクのある「エルヒー・メルゲンと七つの太陽」がお薦めです。 エルヒー・メルゲンと七つの太陽 モンゴルのいいつたえ集 [ 塩谷茂樹 ] 価格:1760円(税込、送料無料) (2021/3/27時点) 楽天で購入 続きを読む
妙好人、浅原才市の詩 10月 08, 2020 浄土真宗の篤信者のことを妙好人と呼ぶことがありますが、おそらく最も有名な妙好人と思われる浅原才市は、7000首近くにも及ぶと言われる「口あい」と称する短い詩を書き残しています。まず、その中の一つをご紹介します。 なむあみだ、 せかいも、わしも、こくうも、しやべつなし。 これがひとつのなむあみだぶつ。 ひらがなだとわかりにくいので漢字も混ぜて書き直すと「南無阿弥陀、世界も、ワシも、虚空も、差別なし。これが一つの南無阿弥陀仏」となります。念仏の元に自分と世界と認識出来ない事象も全て差別なく一体化している境地を詠んだ歌で、前後に阿弥陀仏がなければ密教や華厳宗の歌としても成り立ちそうな世界観です。 浄土真宗は自力の行を一切否定していますが、修行するという意識がない状態でひたすらに念仏を唱えるのは、慢心を生みにくい禅となる可能性もあるのかと外野からは思います。その瞑想体験により直接的に感得したしたものを詩に詠んでいたのかも知れません。 もう一つこうした意図せず生じた瞑想体験かと思われる才市の歌を今度ははじめから文字を修正してご紹介します。 私ゃ幸せ 南無阿弥陀仏が目に見えぬ 大きな御恩で目に見えぬ 虚空見るには、虚空に抱かれて 平一面、虚空の中よ いかがでしょうか?期せずして禅のような状態となっても、自力で悟ろうとしていなければ真宗の教義的にも多分セーフでしょうから(違っていたらスミマセン)、真宗の門徒さんで心が疲れた時は禅ではなく、ひたすら念仏すると何か見えてくるかも知れませんよ。 南無阿弥陀仏。 続きを読む
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