根性

 昭和の時代までの教育では努力と忍耐と根性が強調されており、後に根性論や精神論として批判されています。しかしながら、努力は何にせよ必要なものです。仏教でいうところの精進です。忍耐も何かをなす時に必ず起きる苦境に耐え感情を乱さずにおくのは生きる上で重要な事です。これは仏教で言うところの忍辱にあたるでしょう。

 では、根性はというとなかなかに定義しづらい概念です。アメリカ英語で言うところのGritのように何かをやり抜く精神力的なニュアンスですが、Gritの場合はその目標の実現可能性が喪失すれば終わるのに対し、根性にはその辺の切り替えに欠ける印象があります。また、かつては体罰の際に根性を叩き直すという形容も使われており、この場合の根性は人の性質のような意味で使われています。仏教のお経で根性という言葉が出てくる場合は概ね才能とか資質とかそういう意味で使われています。

 考えれば分からなくなりますが、高齢者が体感的に理解している根性はなんかもうオカルト的な呪文とかと同じです。体力、精神力の限界が来て倒れても「根性だ」と一言唱えると立ち上がり戦い続けます。統計に残っていないだけで、根性の濫用で過労死した人も多いことでしょう。ただ命がけの局面で根性を発揮できれば逆に助かることもあり一概に悪いものとも言えません。

 根性は体や心が発する限界に近いというアラームを一時的に解除するものなのかも知れません。いざという時に使えるように無いよりはあった方がいいですが、限界内で努力していても徐々に能力があがり限界のラインは広がるものなので、無理してアラームをOFFにする必要も無いです。日頃の努力がより大切なのです。ただし、明らかにアラームが誤作動して余裕すぎる範囲内でくじける人には根性は必要です。昔は、それを見極め指導できる人が良い教育者と呼ばれていました。根性とハサミは使いようなのです。

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