あるがままを受け入れる

 密教や如来蔵思想では、世界の全てに仏を見ます。全てがありのままで尊いのです。心穏やかに全てを受け入れて生きるのが良いとする言説はしばしば聞かれるものです。こうした見方では全てが平等であり、地べたを這う虫も大恩ある師も命の価値は差別なく同じく尊いとされます。もちろん、自分や仲間を殺戮するような犯罪者の命も尊いと言うことになりますし、弱いものをいじめて我欲を満たすような人の命も尊いのです。

 さて、この文脈から世俗の決定を批判せずに従うのが宗教者としてあるべき姿だとの意見もあります。しかし、それは本当にありのままを受け入れている姿なのでしょうか?

 ある日もし日本が独裁国となったとして、国家主席を賛美し信仰を放棄し国家に逆らう市民を殺すように世俗の権力から命令を受けた場合、唯々諾々とそれに従うのはありのままを受け入れる事にはなりません。

 七仏通誡偈にあるように、悪いことをせずに善いことをして心を清めるのが仏の教えです。悪い命令には従わずに、その結果として刑罰を受けようが殺されようが自分の行為を納得して受け入れられるような状態が、ありのままで善いといえるのです。全てがそのままでよいというのを、悪に屈する脆弱さの言い訳にしてはいけません。もちろん、どんな悪人の命も尊くはありますが悪が尊い訳ではないのです。

 人は文字ばかりにこだわるとこんな簡単なことも分からなくなるものです。思考実験ではない他との関わりの経験と常識は大切にすべきです。

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