一切の生き物への慈悲
あたかも、母が己が独り子をば、身命を賭しても守護するように、一切の生きとし生けるものに対しても無量の慈しみのこころを起こすべし。(スッタニパータ 149)
冒頭の文は南伝経典に釈尊の言葉として伝えられている物です。まあ現代だとジェンダー問題上好ましくないとか言われかねませんが、実際に母が子に与えるような慈悲を全ての生き物へ向けるのは至難の技です。
小生も、自分に対して罵ってきたり暴力を振るってくる人にはまだ慈悲も持てますが、自分の周囲や全く無関係な人を攻撃してくる人に対してついつい怒りの心をもってしまう事はあります。また慈悲の心を持って他者を助けようとしても、それ自体がうまくいかないこともしばしばです。
暴力行為を緊急的に制圧するのはやむを得ないかと思いますが、その時に怒りの感情はもってはなりません。憐れみましょう。また、酷いことを言われて傷ついている人がいた時に、悪口をいった人にやめるようにお願いしてもやめてくれない場合があります。この場合も相手を哀れだと思う気持ちが先立てば怒りも湧きません。ただし、被害者は加害者から守らねばなりませんので、とりあえず両者を引き離すなどの工夫は必要でしょう。
では、暴力行為を何らかの事情で阻止出来ない場合はどうでしょうか?何も出来ずに人々に危害が加わるのを傍観するのは辛いものです。その時に自分の無力さを嘆くよりも犯人に対する怒りが湧きはしないでしょうか?一切の生き物への慈悲とはその犯人にも慈悲の心を持たねばならないのです。怒りの主体はいつも自分です。この世に確固たる我というものはなく全ては関係性の中にあるという諸法無我の教えを思い出してまずは冷静になりましょう。自分も被害者も加害者も関係性の中にあり全ては救う対象です。人間は無力です。どうしようもない時は祈るしかありません。何かいいアイデアが思い浮かぶかも知れないし、そうで無いかも知れませんが、全ての人が救われるように祈りましょう。
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