仏教と社会
現在、日本仏教の諸宗派は人権問題や社会問題に対して何らかの活動をしているところが多いですが、仏教は世俗の問題に関わらないのが本来あるべき姿だとして批判されることもしばしばです。こうした批判は主に、初期仏教の信奉者から受ける場合と、政教分離の立場から批判される場合とがあります。
確かに、初期仏教において出家者集団は世俗社会に支えられて修行に励む立場で、世俗の在家信者に説法などはしても組織だった社会問題への介入は行っていませんでした。しかし、日本へ伝わった大乗仏教では、利他の精神が強調されており、聖徳太子の昔から困窮者や高齢者などを対象とした病院や福祉施設の整備が行われてきました。飛鳥時代から奈良時代の仏教は国家鎮護の意味も強く、社会の平和を祈り、また行基菩薩などは個人的に公共のための土木工事も行っています。日本仏教は当初から社会に介入していたのです。
こうした行いに対して物質的では無く精神的な活動をしろとの批判もあるようですが、助けられるものなら飢えや病に苦しむ人を助けるのは常識の範疇の話であり、止められる筋合いはありません。ただ、明治以降に財政基盤が脆弱となった諸寺院の慈善事業は縮小していき、現在では社会福祉は国家主導となっています。ともあれ、日本の仏教が社会に介入するのは菩薩行として問題ありません。社会問題に関する見解は人それぞれ千差万別ですから、必ずしも本山の意向に同意しかねる場合もあるでしょうが、その辺は個々人の自由です。異論があるのならば具申すればよろしいのです。
また、政教分離の観点から、仏教の社会問題への介入を懸念する声もあります。これに関しては一定の理解が可能です。上記のように社会問題に関する見解は本来個々人で差があって当然なのですが、カルト教団が一つの意見を信者全体の意見として押し付け政党を結成し国政を左右しようなどという邪悪な企ては断固粉砕すべきです。ただ、仏教関係者が社会的なメッセージを発しただけで、政教分離がどうのこうのと言って食ってかかるのもやりすぎでしょう。出家、在家を問わずに仏教者も国民の一人であり、社会的問題に意見をいたす権利はあるのですから。
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