四諦八正道、その4
四諦八正道、その4は道諦です。これは先の苦諦でこの世の一切は苦だと受けとめ、その苦を滅するためには煩悩を滅すれば良いということが集諦と滅諦で示され、では具体的にどのようにすれば煩悩を滅して悟りをひらけるのか(涅槃に入れるのか)を示したものです。八つの正しい道、八正道を修めることでそれは実現されるとされます。順にみていきましょう。
一つ目は正見です。物事を極端によらずに中立の視点で、この世の一切は苦であること観て、縁起の法を観て、この世は無常で我というものは存在しないと観れば、世間一般の喜びや貪りもただ空しいものにすぎず執着を離れた智慧のあるものの見方ができるようになります。正見は一つ目の八正道ですが、実はこれがゴールです。続く七つは最終的にこれを補強するものとなります。
二つ目は正思惟です。正しく物を見る事は欲望にとらわれてた偏った立場にあっては出来ません。貪りや渇望や性欲から離れなくてはなりません。また怒りをもってもいけません。暴力を振るうなどもってのほかです。こういう事から離れた正しい考え方をしなくてはいけません。
三つ目は正語です。嘘や誰かを仲違いせせようとする言葉や荒い言葉遣いや無駄に飾り立てた言葉を避ける事です。人は言葉につられて考えや物の見方が変わるものです。言葉づかい一つで他人を傷つけることもあり注意が必要です。
四つ目は正業です。これは悪いことをしないという意味です。生き物を殺したり、物を盗んだり、性行為をすることは禁止されます。
五つ目は正命です。正しいなりわいで生きていく事です。出家僧としては物乞い(托鉢・乞食行)をして生き、しかも必要以上に貰わない事です。なお、在家信者はこうした托鉢をする僧に布施をすることで功徳を積むことが出来ます。
六つ目は正精進です。六波羅蜜でも出てきましたが正しい努力です。善い事をして悪いことをせず、既に起きている悪を絶ち、既に起きている善を育てる努力です。
七つ目は正念です。これはまず肉体とは汚れたものであると観て、この世の一切は苦であると観て、心が無常であることを観て、この世のいかなる物事も自分自身と呼べるものはないと観て、これらに注意をしつつ、これらを取り巻く内外の環境に気づいた瞑想状態を指します。瞑想しながら評価を加えずに現在の状態、例えばただ肉体が呼吸をしていることに気づいているような状態です。
八つ目は正定です。六波羅蜜で言うところの禅定です。意識を集中されることですね。この正定と正念による瞑想をもって一つ目の八正道である正見が得られるとされますが、これらの八つはお互いを補完しあって悟りを確かなものとするのです。
以上で八正道の説明は終わりますが、いかがでしたでしょうか?繰り返しになりますが、初期仏教では、出家した僧が悟りを目指し、在家信者は僧を支えることで功徳を積んで良い転生が出来るようにするという図式があり、八正道は出家僧の為のものです。まずは僧侶が自分を苦から救い、それをみた一般人も現世や来世で僧侶を目指せれば徐々にみんな救われていくという思想です。一方で、日本で主流の大乗仏教は在家信者も悟りを目指しますので、出家僧向きの八正道は主流とはならず、六波羅蜜や念仏などが重んじられてきました。別にどちらが良いとか悪いではなく、仏教としての共通点は残しつつの別の仕組みなのです。だから、総合的に八正道を理解せず、大乗仏教に都合の良いところだけをピックアップして礼賛するのは、現在も八正道に従う上座部仏教の人からみたらあまり気持ちの良いものでは無いことでしょう。世の中むずかしいですね。
それではまた、合掌。
一つ目は正見です。物事を極端によらずに中立の視点で、この世の一切は苦であること観て、縁起の法を観て、この世は無常で我というものは存在しないと観れば、世間一般の喜びや貪りもただ空しいものにすぎず執着を離れた智慧のあるものの見方ができるようになります。正見は一つ目の八正道ですが、実はこれがゴールです。続く七つは最終的にこれを補強するものとなります。
二つ目は正思惟です。正しく物を見る事は欲望にとらわれてた偏った立場にあっては出来ません。貪りや渇望や性欲から離れなくてはなりません。また怒りをもってもいけません。暴力を振るうなどもってのほかです。こういう事から離れた正しい考え方をしなくてはいけません。
三つ目は正語です。嘘や誰かを仲違いせせようとする言葉や荒い言葉遣いや無駄に飾り立てた言葉を避ける事です。人は言葉につられて考えや物の見方が変わるものです。言葉づかい一つで他人を傷つけることもあり注意が必要です。
四つ目は正業です。これは悪いことをしないという意味です。生き物を殺したり、物を盗んだり、性行為をすることは禁止されます。
五つ目は正命です。正しいなりわいで生きていく事です。出家僧としては物乞い(托鉢・乞食行)をして生き、しかも必要以上に貰わない事です。なお、在家信者はこうした托鉢をする僧に布施をすることで功徳を積むことが出来ます。
六つ目は正精進です。六波羅蜜でも出てきましたが正しい努力です。善い事をして悪いことをせず、既に起きている悪を絶ち、既に起きている善を育てる努力です。
七つ目は正念です。これはまず肉体とは汚れたものであると観て、この世の一切は苦であると観て、心が無常であることを観て、この世のいかなる物事も自分自身と呼べるものはないと観て、これらに注意をしつつ、これらを取り巻く内外の環境に気づいた瞑想状態を指します。瞑想しながら評価を加えずに現在の状態、例えばただ肉体が呼吸をしていることに気づいているような状態です。
八つ目は正定です。六波羅蜜で言うところの禅定です。意識を集中されることですね。この正定と正念による瞑想をもって一つ目の八正道である正見が得られるとされますが、これらの八つはお互いを補完しあって悟りを確かなものとするのです。
以上で八正道の説明は終わりますが、いかがでしたでしょうか?繰り返しになりますが、初期仏教では、出家した僧が悟りを目指し、在家信者は僧を支えることで功徳を積んで良い転生が出来るようにするという図式があり、八正道は出家僧の為のものです。まずは僧侶が自分を苦から救い、それをみた一般人も現世や来世で僧侶を目指せれば徐々にみんな救われていくという思想です。一方で、日本で主流の大乗仏教は在家信者も悟りを目指しますので、出家僧向きの八正道は主流とはならず、六波羅蜜や念仏などが重んじられてきました。別にどちらが良いとか悪いではなく、仏教としての共通点は残しつつの別の仕組みなのです。だから、総合的に八正道を理解せず、大乗仏教に都合の良いところだけをピックアップして礼賛するのは、現在も八正道に従う上座部仏教の人からみたらあまり気持ちの良いものでは無いことでしょう。世の中むずかしいですね。
それではまた、合掌。
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