ビハーラ医療に活かす六波羅蜜、その2

 ビハーラ医療に活かす六波羅蜜の二回目です。

 これまでにお話した布施と持戒に続き、三つ目の忍辱(にんにく)についてお話します。これは苦難に耐え忍ぶ事です。主に怒りのコントロールが重要になります。また、なんでもかんでも耐え忍べばいいと言うものでもありません。順にお話していきましょう。

 まずは怒りのコントロールです。以前にお話したように、怒りは代表的な煩悩の一つで仏教者たるもの滅ぼすべきものです。仏教はあらゆる物事には原因があるという縁起の思想を持っています。怒りや貪りの場合は、物事のへの執着が怒りや貪りを生む原因となります。確かに、自分にとってどうでも良いものがどうなっても怒りなどわいてはきません。だから怒りを感じたならば、まず本当にそれは怒らなければならない事なのかを考えてみると良いでしょう。少し考える時間を設けるは大切です。間髪入れずに、怒りのままにそれを言葉にしては、自分の怒りをより固くして、相手の怒りを呼び起こす原因となるでしょう。暴力にうったえるのももちろんいけません。

 とは言っても次のような場合はどうでしょうか?例えば、子供が急に車道に飛び出そうとしたので腕を掴んで引き戻しなんてことをするんだと怒ったとしましょう。これは子供を危険から救ったという行為自体は正しい。腕を掴んで引き戻すのも暴力的ではありますがやむを得ないでしょう。では怒ることに関してはどうでしょうか?本来は子供を心配したり子供になぜ車道に飛び出すのがいけないのかを説明しさとすべき話です。怒るのは子供は自分の考えどおりに動くべきだと言う思い込みや執着がある為です。子供は大人の思い通りに動きませんし、何が危険で何が安全なのかまだよく理解できないのです。強く叱り導くのは構いませんが、世の虐待事件をみてもその建て前はしつけです。言うことを聞かない子供に対して思い通りにならない子供に対して怒りを爆発させ大人がしつけを口実に暴力をふるい怪我をさせたり命を奪うことはあってはならないのです。

 次になんでもかんでも耐え忍べばいいと言うものではない事の説明です。耐え忍ばなくていい事例とは、自分が耐えることで、他人に害を及ぼす場合です。例えば、独裁者がいたとして、あなたが無実の人を処刑するように命じられたとしましょう。無実の人を殺すなんてとても嫌な事です。だけど、忍辱して独裁者の命令に従ったとしたらどうでしょうか?もちろん、これは正しくありません。こんな事には耐える必要は無いのです。普通に抵抗しましょう。では、そんなひどい事を命じた独裁者に対して怒りをもつのは正しいでしょうか?仏教的には正しくありません。非道をなす輩にも慈悲をもって導かなくてはなりません。

 怒りはビハーラ医療のみならず、あらゆる職場で無用の長物です。怒りをコントロールできれば仕事の効率もあがります。

 皆さんはどんな相手でも許すことは出来ますか?こう考えると忍辱もなかなか難しいものですね。ですが怒りにとらわれていては冷静に物事をみられなくなり良いことは何もありません。簡単にみえるものほど難しいものです。まずは出来る範囲で忍辱できるように努めてみるのが良いでしょう。

 それではまた、合掌。

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