四諦八正道、その2

 四諦八正道のその2です。今回は、その1でお話しした代表的な大乗仏教の経典である般若経が否定した四諦、すなわち苦諦、集諦、滅諦、道諦のうちの苦諦について説明します。

 苦諦は簡単に言うと、この世の一切が苦しみであると言う初期仏教における真理です。仏教が向き合ってきた生まれ老い病んで死ぬ、生老病死の四つの苦しみ(四苦)と、好きな人や物と必ず別れなければいけない苦しみ(愛別離苦)、嫌いな人や物と接しなければならない苦しみ(怨憎会苦)、欲しい物が手に入れられず(求不得苦)、肉体と心を持つ事による避けられない苦しみ(五蘊盛苦)、この四つも併せて四苦八苦とされるのは有名なところです。

 これは苦しみの種類を単に分類した物では無く、この世の全てが苦であることを説いているのです。以前、仏教の定義を説明した時にお話した三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)がありましたが、それにこの世界は苦しみしかないという見解(一切皆苦)を足したものを四法印とすることがあるほど、この考え方は仏教において一般的なのです。

 この苦に対して仏教はどのように立ち向かい克服するのでしょうか?それは残りの集諦、滅諦、道諦まで話さなくてはなりませんが、極めて簡単に言うと、これらの苦の原因は無知や怒りや貪りなどの煩悩にありこれを滅すれば苦もまた消えると言う考え方です。

 さて、では日本の仏教を見た場合、この一切皆苦の考え方は浸透しているでしょうか?一部の人には定着していると思いますが、一般的な在家信者にこういった発想はあまりないように見受けられます。

 上記の八苦の一つ愛別離苦について考えてみましょう。確かに、愛している人と別れるのは辛いものです。夫婦や親子や友人などケンカ別れすることもあるでしょうが、どんなに良い関係でもいつか死に別れる事は避けられません。死を前にして、それを嘆き悲しみ泣き叫ぶ人もいることでしょう。ですが、多くの日本文化を継承している人達は、どのように死ぬのが理想と考えているでしょうか?もちろん、価値観は多様であり一概には言えまえんが、愛すべき人達に礼をいって穏やかに最期を迎えたいと希望される人が多いように思えます。

 この和風な別れの風景では苦は前面に無く、むしろ縁のあった人達との和の完成であり優しさに満ちています。また、実際には内面に苦はあっても、日本の伝統的文化的では「花は桜、人は武士」のような散り際の良い美しさや潔さが大事だという風潮もあり、死を目前にしても好きな人に無様な姿は見せまいとする残される者を思いやる気持ちもあるように思います。もちろん理想的な死に方をできる人など極々少数に過ぎませんが、非業の死を遂げても何らかの救いをもたらす物語を残された人々に提供してきたのが日本の仏教のように思えます。つまり、愛別離苦も死も絶対に滅ぼすべき苦でなく、受け入れているような感すらあります。

 ですが、初期仏教ではこの世のすべてが苦であるというのは前提であり真理です。この苦から抜け出す為に仏教はあるのですから、もしこの世は苦ばりじゃ無いさと言う事になってしまうと仏教の必要性から消滅してしまいます。この世は苦であると認めないのは異端というか邪見というか仏教じゃ無いんじゃないの?という疑問も出てくる訳です。大乗仏教が出来た頃の昔から大乗非仏説と言って、大乗仏教は仏教ではないと言う批判が続いているのは、これにも由来します。これも話せば長いのでまた別の機会にします。話を続けましょう。

 初期仏教はこの世の苦から解脱して悟りをひらく出家した僧と、それを支えて来世では良い転生が出来るように頑張る在家信者とは明らかな違いがありました。先述の愛別離苦についても、妻や子供がいると愛情をもってしまう、家族への執着した愛は愛別離苦をもたらす苦でしかない、これを滅するべきである、だから妻や子をもってはいけない。という理屈が成り立ちます。お釈迦様にも妻子がいましたが、お釈迦様は彼らを捨てて出家しました。日本以外の出家僧が妻を持たないのはこうした理由にもよります。もちろん、当時の在家信者の多くは妻も子もいましたので、悟りをひらく事はできません。いま出家の僧を供養して来世で頑張ろうということになります。

 ところが、日本の仏教の主流である大乗仏教は在家信者が主役であり、(主に死後ですが)悟りを目指しています。みなさんは六波羅蜜の持戒を覚えているでしょうか?その中に不邪淫戒がありましたが、不淫戒ではなく不「邪」淫戒です。邪で道を外れたものでなければ性交渉は問題となっていません。愛すべき、他人よりも執着するのを余儀なくされる家族を持つことは少なくとも在家信者に対して禁止されてもいません。それでもその在家信者が悟りが目指せると言うのは、初期仏教の枠組みではかなり無理があります。

 考え方の多様性は面白いですね。もっともこれを理由にケンカをする人もいますが、初期仏教だろうが大乗仏教だろうが、怒りにまかせての暴力は禁止されています。寛容と慈悲の心を大切にしましょう。四諦八正道その3は、集諦と滅諦、お釈迦様がまず悟ったとされる縁起や因縁と言われる考えと不可分のお話にしようと思います。

 それではまた、合掌。

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