浄土真宗の篤信者のことを妙好人と呼ぶことがありますが、おそらく最も有名な妙好人と思われる浅原才市は、7000首近くにも及ぶと言われる「口あい」と称する短い詩を書き残しています。まず、その中の一つをご紹介します。 なむあみだ、 せかいも、わしも、こくうも、しやべつなし。 これがひとつのなむあみだぶつ。 ひらがなだとわかりにくいので漢字も混ぜて書き直すと「南無阿弥陀、世界も、ワシも、虚空も、差別なし。これが一つの南無阿弥陀仏」となります。念仏の元に自分と世界と認識出来ない事象も全て差別なく一体化している境地を詠んだ歌で、前後に阿弥陀仏がなければ密教や華厳宗の歌としても成り立ちそうな世界観です。 浄土真宗は自力の行を一切否定していますが、修行するという意識がない状態でひたすらに念仏を唱えるのは、慢心を生みにくい禅となる可能性もあるのかと外野からは思います。その瞑想体験により直接的に感得したしたものを詩に詠んでいたのかも知れません。 もう一つこうした意図せず生じた瞑想体験かと思われる才市の歌を今度ははじめから文字を修正してご紹介します。 私ゃ幸せ 南無阿弥陀仏が目に見えぬ 大きな御恩で目に見えぬ 虚空見るには、虚空に抱かれて 平一面、虚空の中よ いかがでしょうか?期せずして禅のような状態となっても、自力で悟ろうとしていなければ真宗の教義的にも多分セーフでしょうから(違っていたらスミマセン)、真宗の門徒さんで心が疲れた時は禅ではなく、ひたすら念仏すると何か見えてくるかも知れませんよ。 南無阿弥陀仏。
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