聖徳太子

 中高年の方ならば日本の高額紙幣の顔が聖徳太子であった事を覚えている人も多いでしょう。また、ご存知の方も多いと思いますが、聖徳太子は日本仏教の祖とも言われています。今回はそんな聖徳太子のお話です。

 歴史上の聖徳太子像には色々な説がありますが、少なくとも四天王寺と法隆寺を開き、法華経の解説書を残し、憲法十七条を作り、歴史書を編纂し、隋との外交にあたったのは殆どの説で認められているところです。また、社会福祉にも尽力し、寺院や病院の設立のほか悲田院と呼ばれる身寄りのない老人や病人の為の施設も作ったと伝えられます。大乗仏典の解説も法華経の他に維摩経と勝鬘経の解説も残したとされ「三経義疏」として今に伝えられています。このうち法華経は、その目的がこの世を仏の理想世界にする事であり、維摩経は在家でも優れた仏教者になれることを説き、勝鬘経は女性の正当な権利を保証する教えです。これら仏典の精神は憲法十七条にもいきており、皆で仲良く良い国を作りましょうという太子の意志が感じられます。

 これとは別に、信仰の対象としての聖徳太子も、その後の日本に大きな影響を与えてきました。聖徳太子は日本仏教の祖としての崇敬だけにとどまらず救世観音菩薩の化身であるとも信じられ信仰の対象でもあるのです。その信仰は様々な奇譚を生みました。救世観音が皇女の口に入り厩戸で生まれたのが聖徳太子だとする話や、多くの人の話を同時に聞き分けた話などは有名です。他にも天台宗第二祖の慧思の生まれ変わりだとか、善光寺如来と文通したとか、生まれ変わった禅宗の祖の菩提達磨と交流があったとか、四天王寺で交通安全の御守にもなっている太子の愛馬黒駒が空を駆けた伝説など枚挙に暇がありません。

 浄土真宗の祖である親鸞も聖徳太子を敬愛していました。仏教の修行に行き詰まり比叡山を下山した親鸞は聖徳太子が建立した六角堂にこもり一切衆生を救う道を求め祈り続けました。親鸞がお堂にこもって九十五日目に、聖徳太子が夢の中に現れ浄土宗の開祖である法然の説法を聞くようにお告げを下されました。その後、法然の元で学んだ親鸞によって確立された独自の浄土教思想は浄土真宗として親鸞の死後も拡大し、戦国時代には一大勢力を形成して織田信長と死闘を演じたりするわけですが、聖徳太子の信仰が日本に無ければ、また違った歴史があったのかも知れませんね。過去、現在、未来と色々な縁がつながっているのだなと感じさせる話です。

 過去からの御縁を大事にして聖徳太子が目指した皆が仲良く過ごせる日本になるように私達も頑張りたいものです。

 それではまた、合掌。

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