命の重さに差はあるか?

 唐突ですが家族や友人の命と、見ず知らずの人の命、あなたにとってどちらが大事でしょうか?ほとんどの人が家族や友人の命と答えるかと思います。見ず知らずの人と違い、家族や友人には愛情があるからと当然だ思う人も多いでしょう。それ自体は社会一般の通念としては別に間違っていません。ただ、仏教の思想としては、近しい人への盲目的な愛情は慈悲とは異なる執着であり苦しみを生み出す原因に他なりません。仏教的立場での先の質問に対する答えは、実際にそう思えるかはおいておくとして、どちらも等しく大切であるとするべきところです。また、多くの大乗仏教諸派では慈悲の対象はこの世に生きるもの全てであるので、自分の命も蚊や蝿の命も等しく大切である事になります。

 ではもし、目の前に殺人鬼がいて自分を襲ってきたとしたらどうでしょうか?殺す事なく制圧するなり逃げるなり出来れば良いのですが、相手を殺さなければ自分が死ぬという状況で相手を殺す事は許されるでしょうか?また、殺人鬼の標的が自分では無くたまたま近くにいた小さな子供達だった場合はどうでしょうか?殺人鬼を殺すという結果が同じでもこの二つの事例の間で殺人に対する罪の重さに差はあるでしょうか?仏教の律に従えば殺意をもって殺害すれば罪になります。つまり前者も後者も有罪です。前提条件で否定しているので問題の設定が意地悪でしたが、どうにか制圧するなり逃げるなりするのが良いと言う事になります。伝統的な仏教では、殺人鬼の命も自分の命も子供達の命も等しく軽重は無いのです。数も問題になっていません。なお、殺意がなく制圧しようとした結果、不幸にも殺人鬼が死んでしまった場合は殺人としては仏教上の罪(波羅夷罪)には問われません。

 原理原則としては上記の通りですが、かつて仏教集団を騙っていたオウム真理教がテロを起こした際に主張していた、生きていても悪業しか積まない衆生を殺す事によって救うとか、より大切な命を守る為に殺すとか言った理屈は、残念ながらオウム真理教のオリジナルではなく、昔の仏教でもそういう風に主張する人がおり、それを口実に彼らはテロを行ったのです。どの命がより価値が高いかなどというのは、人間の勝手な解釈でどうとでもなり、これでは恣意的な殺人が合法化されてしまいます。

 では、死刑についてはどうでしょうか?波羅夷罪に該当するかどうかでは、死刑執行の命令を下した法務大臣は有罪という事になります。しかし、出家制度がある仏教では波羅夷罪を犯した際に与えられる罰は、僧の集団からの追放です。つまり、波羅夷罪は元々出家した僧のための規則であり、僧で無いものは罪に問われません。また、波羅夷罪に問われた者がその後、世俗の法律のもとで死刑になってもそれは仏教の律の関与するとこでは無いのです。ところが、ここで一つ問題が生じます。大乗仏教、特に日本の仏教では救済の対象を僧だけではなく、全ての命に拡大しています。僧とは通常は出家した僧ですが、日本的な仏教では救いの対象や菩薩行の主体は在家信者であり、そうなると在家信者にも波羅夷罪は適応されるのではないかという疑問が生じます。この場合は仏教が優勢な社会での死刑執行は困難となります。では死刑は廃止されるべきなのか?かりに仏教思想に基づき死刑に反対した場合もまた社会的問題が生じます。仏教が世俗の法に干渉するのが果たして正しいと言えるのでしょうか?世の中は仏教徒だけでは出来ていません。セム系宗教の聖典や一部の仏教思想では死刑は認められています。彼らに社会全体として死刑廃止を強要するのは倫理的宗教的に正しいのでしょうか?

 日常生活において、命の重さに差を感じるのは迷える凡夫としては仕方がないのかも知れませんが、命の価値に上下をつけるような事は慎みたいものです。もし、他人の命を無価値だと決めつけて殺すような人間がいたとして、その犯人の命を無価値だと判断し殺す事は、殺人に至るまでの考え方は同じです。ならば一体どうすれば良いのか?疑問は尽きませんが、殺し殺されないで済むような慈悲のこころに満ちた犯罪の無い社会を目指す分には誰も文句は言いますまい。

 それではまた、合掌。

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