平常心是道

 茶の湯が禅(主に臨済宗)の影響を受けているのはよく知られた話です。このため、茶席の掛け軸には時に禅にまつわる書がかけられています。

 表題の平常心是道(びょうじょうしんこれどう)もそんな言葉の一つです。いずれ死を迎える私達にとって大切な言葉だと思い取り上げてみました。
 
 この言葉は、南泉普願と言う僧が、仏道とは何であるかと尋ねられた時に答えたもので、日頃からの心のありかたこそが仏道であるという意味です。その心はどうすればつかめるのかと更に聞かれた南泉普願はつかもうとすればつかめなくなると返しました。仏道とは何か特別な心や状態では無く、朝起きてご飯を食べて働いて風呂に入って寝る、この繰り返しの全てに現れるもので、それを意識したり言葉にしようとすると嘘っぽくなるものです。何か良いことをする時も悪いことをしない時も、自分が凄くて偉いからそう出来たのだと思えばそれは傲慢です。自分というとらわれから抜け出せれば、あくまでも自然に気にすること無く仏道を進めることでしょう。なかなか難しいですね。

 ただ、自分が今にも死にそうな状態になったとしても、どんな状況でも仏道を修める事が出来るのだという意味にも解釈でき、なんとも心強い言葉です。

 

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