四諦八正道、その3

 四諦八正道の3回目、集諦と滅諦です。前回、お話したように初期仏教ではこの世のすべて苦です。それからどうやって逃れるのかが次の問題となります。大雑把に言うと集諦では苦の原因を探りそれが煩悩(無知・無明)であることを解き明かし、滅諦では原因である煩悩を消せば苦も消えるという事実の述べています。お釈迦様は原因があれば結果があるという因縁・縁起について悟ったとされていますが、集諦と滅諦はこの縁起の法に基づいて組み立てられた話です。

 さて、ではその縁起について解説しましょう。仏教では一般的に十二支縁起と呼ばれる、十二の要素が次々原因と結果として繋がり、無明から老死に至る苦を形成するという考え方があります。実のところお釈迦様が悟った縁起の法が本当に十二の要素に分類されていたのか、もう少し少なかったのかは分かっていませんが、今回は十二支縁起の話をします。

 十二支縁起自体が有名な話なのでご存じの方も多いかとは思いますが、この縁起の法の解説を聞いた時に、話し手によって解釈が必ずしも一定しないとか、あるいはつながりがよくわからないとかいうことはよくあると思います。実際に解釈の幅は広いです。話の前に先に構成要素を書き出して行きましょう。漢字の仏教用語で書かれてもわかりにくいですが、まずは名称ですのでご容赦を、あとでそれぞれ解説を加えます。以下の通りです。

無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死、

無明があるから行があり、行があるから識があり、、、とつながっていって生があるから老死があるとなり、無明がなければ行がなく、、、老死も無い、となります。

 ここでまず気になるのは最後の生と老死です。これをいま私達が生まれて結果として老いて死ぬ状態の事だと考えてしまうと、生まれる以前の事に干渉不能な私達は、生以前の原因を滅することが出来ず苦もまた消えません。実際に、生まれた以上は老死は避けがたいわけですからね。ではどう解釈すべきなのか、仏教はもともと輪廻転生の考え方がありますので、この生と死は来世の話と考えて、老死のあとはまた無明につながり十二の要素がぐるぐる回って輪廻転生して苦しみ続けるという解釈もあります。この場合は無明は過去世のものですが、ぐるぐる回っている状態ですので、現世の生老死は過去世からみた来世ですし、現世の無明は来世からみたら前世の事で、来世、現世、過去世の各世に十二の要素は内包されます。この連鎖を打ち砕けば輪廻転生の輪から解脱できると考えられていたのです。

 では、この説に従って個別に十二の要素を見ていきましょう、まずは無明です。無知や怒りや貪りの煩悩全般を指します。次は行です。無明が原因で起こる愚かな行為です。怒りに任せて暴力を振るったり、貪りの心で人から物を奪ったりするなどです。このため業がつみあがるとされます。輪廻転生の思想に基づけばこの業の作用によって次は地獄に生まれたり、人に生まれたりするのです。三つ目は識、煩悩に基づく行動によって好きとか嫌いとかと差別、認識する事です。識の結果をもとに次の世の肉体と心が形づくられます。これが四つ目の名色となります。この名色(肉体や心)があるから目で見て、耳で聞き、鼻で匂いをかぎ、舌で味わい、体で触っている感じや痛みを感じとり、物事を考えることができるのです。この感覚器官や意識が五つ目の六処です。六処があるために物事を感じることが六つ目の触です。この触による感受や理解が七つ目の受です。この受により八つ目の愛が生まれます。愛と言っても肯定的な感じではなく、喉の乾きのような渇望です。この愛によって生まれるのが九つ目の取で、これは執着を意味します。こうした執着によりたまった業で次の世の命が決まります。これが十番目の有です。そして来世に生まれ老いて死ぬのが十一番目と十二番目です。

 この輪廻転生をベースとした考えの他に意識と無意識に分類される人もおります。まあ、別に輪廻しなくても、怒りや貪りから起きた誤った行為で偏見が生まれ、冷静に物事を見られなくなり、ますます肉体や心が気持ちの良いものばかりに度を越して執着すればロクなことにはならないのは間違いありません。輪廻や解脱は別にしても縁起の法の煩悩が諸悪の根源だというのは時代をこえて通用する話です。

 四諦の三つ目までの簡単な説明はここまでです。次回は四諦の最後の道諦です。

 それではまた、合掌。

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