至道

 今日は私のネット上の仏教ネームでも使用している至道についてお話しします。漢文の読み下しだと「道二至ル」となりますから迷ったあげくにようやく仏道にたどり着いて、さあこれから精進しようという雰囲気もしますが、実は至道という言葉は悟りそのものや最高の教えを示しており、名前とするには恐れ多い言葉です。ただ、こうした宗教上の名前はそうありたいとの祈りとして掲げる意味もあり、ネット上の仮名としてでもそれにより引き締まる身もあるということで改名せず放置しています。恥ずかしい限りですが、第六天魔王を名乗るよりはマシだと信じて精進してまいります。実社会では実名で活動していますのでご容赦をば。

 さて、至道とはなんぞやということは、しばらく前のブログの言語道断の回で紹介した「信心銘」に詳しく説かれています。その内容を要約すると、至道は自我にとらわれた好き嫌いなどの分別を離れ物事をありのまま見ることができればおのずと明らかになると説かれています。禅の入門書らしい教えです。信心銘では冒頭から至道とは難しく無いと断じておりますが、道理が示されていても実践は難しいものです。

 簡単なはずの事がなかなか出来ないというのは仏教の本質でもあるように思えます。唐の時代の高名な詩人である白居易が道林禅師に仏教の真髄を尋ねたとき、禅師が「善いことをして悪いことをしないことだ」と返事をしたところ、「そんなことは三歳児にもわかる」と言った白居易に禅師は「三歳児に分かることが八十の老人にも実践しがたい」と指摘された話が思い出されます。道が分かっていても進んでいかなければ意味をなさないのが仏道なのでしょう。

 道はまだまだ遠いですが、いつか成仏したいものです。

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