言語道断

 言語道断は現代ではとんでもないことの意味で使われていますが、元々は仏典などで言葉では言い表せないとの意味で使われていました。維摩経などにも出ている言葉ですが、個人的には禅宗四部録の一つ信心銘の最後の文である「信心不二 不二信心 言語道断 非去今来」が印象深いです。

 信心銘は禅宗の詩らしく、真実は言葉では無く心で伝えるとの不立文字の考えから最後は言語道断な訳です。信心銘の内容は、龍樹の中論の様に二項対立を否定する内容が続き、ついには信と心も同じであると結んでいます。

 さて、信心銘の信と心は何を意味しているのでしょうか?言語道断なのだからおとなしく座禅してろとのツッコミもあるでしょうが、少し考えてみましょう。信心と言った場合、通常は信じる心ですがこれでは信ははじめから心に内包されており改めて同じものだと言うのには違和感があります。信心が心を信じる意味であれば、信と心は信じる者と信じられる心の能動と受動に分けられ、聖と俗の二項対立に還元できます。この場合、心とは個々人の中の修行で見出すべき仏性で、その仏性を信じるのも修行者となります。そうだとすると、信心不二とは仏性と修行者が同じだと言っていることとなります。

 信とは任せる帰命するとの意味もあり、信心とは南無自分の中の仏性というようなニュアンスにも解釈出来ます。信心不二なのですから、南無佛という言葉は佛も南無も同じだと言うことになります。南無=仏なのです。

 これらを総合すると信心銘の最後の文は、「禅により自分の中の仏性を見つめ、この仏性に任せることで南無も仏も同じだと感じるのが仏道修行の要点で、それは体験でしか理解出来ない。これは過去、現在、未来でも関係なく変わらぬ真理だ。」という風に解釈できます。

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