仏教の転生観

 時々、本来の仏教では転生を否定していたなどという言説を見かけますが少なくとも文献的には間違っており、大乗仏教以前の古い仏典でも輪廻転生は前提となっています。お釈迦様はこの世の全てを苦とみなし、その原因を煩悩だと突き止め、煩悩を滅した結果として安らぎを得られるとしており、この安らぎの状態が悟りです。そして悟りを開くと、もう再び転生して苦しみの世に生まれる事はなくなるというのが仏教の考えです。お釈迦様の時代には人は転生するという考えが常識であり、この世の全てが苦であるとする以上はそこに転生してきては苦から脱せたことにはならず、悟り=転生の終了、つまり輪廻からの解脱だとなるわけです。

 人は輪廻転生するの常識だった仏教が成立した時代のインドの宗教はバラモン教を主としていました。その教えではこの世界の神的存在であるブラフマンと同じものが人々の内にもあるとされ、それを真我(アートマン)と呼びました。バラモン教の悟りや解脱はブラフマンとアートマンが一体である事を理解・体感する事でした。バラモン教ではこのアートマンが輪廻転生の主体だとされていました。お釈迦様の教えでは、この世の全てはうつろいいき確固たる我は無いとしますのでバラモン教の言うアートマンは否定されます。しかし、だとすると仏教における輪廻の主体は何なのかという問題が生じ、後の仏教諸派の多くでは人の行為にともなう業が引き継がれるのだとしています。大乗仏教の輪廻観も概ねこれを基本としており、お釈迦様の否定した方のアートマンを肯定しているのではありません。

 大乗非仏説論でよく指摘される主張に、お釈迦様は確固たる我は存在せず全ては移ろう関係性の中に成立するのみだと言っているのに、大乗仏教では各人に仏性があるとして、それに目覚めて成仏すれば仏としての我が永遠に安楽で清らかな状態であり続けるとしているから大乗仏教はお釈迦様の教えではないとするものがあります。しかし、前述の通り、大乗仏教の言う仏性は経典の文字として我(アートマン)があてられる場合があってもバラモン教のアートマンとは別物です。語弊を恐れずに言うと仏性の本質とは縁起の法のように大乗で無い仏教でも不変の法則とされる物で、それが世界の全てに適応されると言っているに過ぎないのです。

 密教では世界の法則の象徴である大日如来と自己の合一を目指すので、これをバラモン教と同じだとする人もいますが、密教でも上記の仏教的な考えから大きくは外れ無いと思います。ただ、密教から見たその他の仏教である顕教と違い、その教えの最終的なところは秘密の部分も多いので断言は避けます。顕教は実践がすごく難しいだけでやるべきことは明らかにされていますが、密教はさわりの部分は分かっていても修行を積んで認められないと秘密の教えを受けることを許されず、また修行なしに理解も不可能だとされています。密教の修行を積んでいない小生が密教についての断言は出来ないのです。確かにチベット密教では、高僧は意図的に転生を続けてこの世に滞在し続けると信じられていますので、輪廻転生に関して顕教の理解とはやや違う点もあるのかも知れません。

 もっとも顕教とひとくくりにするのも問題ですので、詳しくはご所属のお寺に聞かれると良いでしょう。

 まあ、多少の違いはあっても、こうした転生観が仏教圏の文学や芸能などの文化に今でも多大な影響をもたらしています。また、実生活において転生を信じる信じないは別にしても、どんな嫌な相手にあっても長い長い年月の間の縁の結果よと思えば、まあいいかと思えてきます。ともあれ、次はこの世に転生せずに成仏したいものです。

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