二入四行

 禅宗の祖である達磨大師が説いたと言われる二入四行は、禅的な視点で多様な仏道への入り方を理入と行入の二種類に分類したものです。理入は禅の理屈と効果を説いており、行入は仏道修行を四種に分類し四行とした物です。四行は日常の生活にも利用出来る心の持ちようを説いているようにも読めますが、瞑想の際の心の安定を得るのに役立つものです。そもそも禅の考え方では生活の全てが修行です。座禅をしていようが、歩いていようが、会話していようが、ご飯をたべていようが全ては禅の修行なのです。文字ではなく心で教えを伝える事を旨とする禅の歴史で残っている文章は、いわゆる禅問答のように一見すると訳のわからない物が多いのですが、二入四行は少なくとも文字の上では理解出来る話となっています。なお、伝統的に伝わる四行と、昭和10年に敦煌から発掘された二入四行論とではいささかの違いがありますが、今回は後者に準拠してお話します。

 まず、理入とは、聖も凡も生きているもの全てが同一の真性(仏性)がそなわっているのに、煩悩に覆われその真の姿をあらわせていないと知ることです。だから、妄想を捨てて文字に頼らずに心を落ち着かせていれば、意識は真理と一致として迷いから解放されるとする考え方でもあります。文字の上では理解できますが、最後は禅を体験するしかないのです。

 行入は四つの修行法である四行についての解説です。四行とは報怨行、随縁行、無所求行、称法行の四つです。以下に説明と感想を述べてまいります。

 第一の報怨行は、苦しい目にあった時にこうした苦しい思いをするのは自分の行いや宿業が影響したものであり、苦しいからと言って他を恨んだりせずに受け入れるという行です。六波羅蜜で言うと忍辱と同じようなものです。さて、宿業とは生まれ変わる前や更にその前の行いが現世に影響を及ぼすという考え方で、昔は難病になった者は前世でとんでもない事をしたからだと差別の対象となったりしていました。この影響か近年では宿業に言及のある仏典は無かった事にされたり、法話などでも語られることは少ないです。しかし、この報怨行は病気や天災で理不尽な苦境に立った時に自分が他を恨んだりしない効果の方が重要視されていたと捉えるべきで、他者を差別するためにあるのではありません。また、もし宿業で他人が苦しんでいても差別して良い訳がありません。なお、科学的な知見では宿業はありません。よしんばあったとしても確認のしようがありません。難病になった患者様から自分が何か悪いことをしたからこんな病気になったのかと聞かれることもありますが、そんな時はもちろんNOと言っています。また、自分に瑕疵がないのに理不尽な目にあった時は他を恨まないようにするために、宿業か否かは別として自分にはどうしようもない力がはたらいたのだと思うようにするのは良い事ですが、この考えがいき過ぎると悪を放置することにも繋がります。相手が通り魔や暴君でも怨んではいけませんが、彼らの行いを黙認して人々が困るのを放置するのもいけません。

 第二の随縁行は、全ては縁により成り立っており自分も含めて世界は無我なのですから、何か良いことがあっても儚いもので喜んではならないとする行です。先述の業は悪い結果をもたらすこともありますが、良い結果をもたらすこともあります。報怨行とは逆に、自分があずかり知らない縁の影響でたまたま良いことがあっても喜ぶに値しないとするものです。苦も喜びも自分に執着した結果なので心を落ち着かせるのにはいらない物です。しかし、苦しみを捨てられるとなると人は喜んでこれを捨てますが、喜びを捨てられるとなってもなかなか捨てるのは難しいものです。難しいのですが、何か良いことがあった時は、この良い結果は自分がすごいからだと思い上がって喜ぶより前にまず様々な縁に感謝することからはじめると良いでしょう。

 第三の無所求行は、貪りの心から離れる行です。苦しいことがあっても怨まず、良いことがあっても喜ばず、自分への執着をたって貪らずご縁の流れに従って生きるのもなかなかに難しいものです。修行することで執着や貪りから離れたとの結果を求める心もまた貪りです。睡眠を取り適度な食事を摂るのを貪りよと避けるのも苦行を貪っているといえるかも知れません。そういう自分のこだわりを捨てて求めない生に安らぐのは心が定まっていないと至難です。

 第四の称法行は、全ての物は本来清浄な法であり、それは空だから執着が無く、法にかなった生活をおくることで、利他行に徹し悟りへの修行を続ける行です。仏性の清浄さを体感し菩薩行に励む道筋を四行は示していると言えます。

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